光の中の闇でペーソスと踊る






 誰にでも秘密がある。
 その秘密が、大きいか小さいかは、持つ人それぞれの感覚でしかないが。確かに誰もが、心に何かを秘めて日々を暮らしていることだろう。
 だが、どうしても隠しておきたい秘密があるとすれば、それは決して人に話してはいけない。自分の秘密は、誰かと共有できる物ではないからだ。
 そして人は、他人の秘密をそのままにしておく事の出来ない生物でもある。
 それが、自分に関係しているとすれば、尚更だ。
 だが、その秘密に苦しむ人も居れば、その秘密に救われる人も居る。それは確かで、全ての『謎』を解き明かし、それを明るみ曝した事で、その後の結末に、何がどのように影響を及ぼすか。それは、誰にもわかりはしない。
 例えば『真実』を知り、その結末が訪れるまでは、知ることが『正しい』か『間違いか』を判断することさえできない。そうは思わないだろうか。
 だからこそ、問われる事がある。
 その謎を解き明かし、『真実』を手に入れたとして。
 その『真実』に、どれだけの『価値』があるのだろうか?





 まず、この物語を始める前に、一つ話しておかなければならない事がある。
 とある家族の話だ。
 その家族は、父一人、母一人、そして二人の間には、息子が一人居た。傍から見れば、それは普通の、どこにでも居る『家族』に見えたはずだ。だが、実際には、家族の関係は既に壊れていた。
 夫婦仲は既に修復不可能なほど離れ、その影響は、一人息子に向かい、息子もそのせいで心身ともに疲れきっていたのだ。
 毎日繰り返される夫婦喧嘩、その末に父は決まって家を出て、二・三日は戻らず、そのせいで母の怒りは息子に向かう。
 父がいないことで、母に毎日怒鳴られ、事あるごとに母に物を投げられ、怒りと憎しみで狂わんばかりの母が、ようやく正気に戻れば、まるで幽霊のように泣き暮らし、息子に父親への恨み言を、呪うような勢いで聞かせる。
 そんな毎日に、息子が精神を病まないわけがない。
 息子はついに、精神的苦痛から、病院へ通うようになってしまった。薬を貰わなければ、まともに眠ることさえできず、そんな彼を、友人も親身になって心配してくれるが、それこそ、息子まで家から居なくなれば、母は誰かを傷つけてしまうかもしれない。
 息子はそう考えると、母を一人にもできないし、この母と毎日口論を繰り返し、我慢し続けるのに疲れ、逃げ出してしまう父を責めるのも哀れで仕方なかった。
 だが、そんな彼に転機が訪れたのは、意外にも家に寄りつかなかった父のある行動からだったのだ。
 母から逃げ出した父は、母とは違う女性と暮らしていた。いわゆる『不倫』だ。
 息子は、自分だけ逃げていた父に、恨む気持ちがなかったとは言えないが、母と居ると、決まって苦痛の表情を浮かべる父が、浮気相手の女性と一緒に居る時は、穏やかで優しい顔をしているのを見ると、やはり、父を責める気にはなれなかった。
 父としても、息子を一人で残したことが気がかりだったのだろう。まるでそれを償うかのように、息子に接した。
 父の愛人だった女性も、息子が彼女のもとに遊びに来るのを、心から歓迎してくれて、息子の知らない間に、息子に兄弟もいたのだ。
 そして、その場所は、息子にとって初めて心の休まる場所となった。
 だがそれは、束の間の平穏で終わりを向かえる。





 坂口 広美(さかぐち ひろみ)は肌寒さを感じて目を覚ました。
 だが、いつの間に眠ったのだろうか。広美はそんなことすら思い出せない。それどころか、いつ家に帰ったのかも、思い出すことはできなかった。
 それでも、目が覚めてくれば、色々なことを考えはじめ、まだ覚醒しきっていない広美の脳内では、自分が眠ってしまう前のことが、薄っすらと思い出される。
 昨夜は少し調子にのって、お酒を飲みすぎてしまったせいだろう。微かな頭痛と、頭がやけに重い感覚に、広美は昨夜のお酒がまだ残っている気がした。
 そして、脳が段々と活動をはじめれば、彼女の最後の記憶が、やけに曖昧であることに気がついた。
 やはり、どれだけ考えても、自分が家に帰った記憶はない。
 鈍い頭痛と重い頭のせいで、睡魔の誘いにまた落ちてしまいそうな自分を、広美は無理矢理体を起こして抵抗する。
 それにしても、室内がやけに薄暗い。それに、硬い床で寝ていたせいか、体もなんだがきしむように強張っている。
 だがそんなことよりも、広美は今の『異常』さに気がつき、そして慌てて室内を見回した。
 体が軋むような感覚になるのも当り前だった。何しろ、広美が寝ていた場所は、コンクリート向き出しの床だったのだから、こんなところで寝ていれば体も痛む。
 そして何よりも、この部屋には見覚えすらなかった。
 室内は辛うじて見える程度の薄暗さで、広さは六畳ほど。少し錆び付いた扉が一つだけあり、窓はなく、壁も天井も、そして床さえも、白く冷たいコンクリートで囲われている。
 広美は、まるで小さな箱に閉じ込められたような感覚がした。
 そして、この狭い室内に見えるのは、天井近くの壁にかけられたアナログ時計がひとつと、部屋の中央に置かれた、真四角のテーブルと四客の椅子。
 この状況に、広美は言葉を失っていた。見覚えのない室内に、曖昧な記憶が手伝って、広美は混乱して、考えがうまく、まとまらない。
 広美は、他に何もないかと自分の周りを見回して、自分の荷物が側にあることに気がつき、それを自分に手繰り寄せて抱きしめると、室内によく目を凝らす。
 そうすれば、この室内には自分以外の人間が二人も居ることにはじめて気がついた。
 広美の居る位置から、テーブルを挟んだ向こう側に一人と、アナログ時計の下に一人だ。
 広美が目覚めたときと同じように、その二人はコンクリートの床で体を横たえていた。
 だがその二人も、広美の動く気配を感じたのか、二人はほぼ同時に起き出して、最初に広美が感じた焦りを見せる。
 そして、互いに顔を見合わせて、三人は少しだけ落ち着いた表情を見せ合う。
 そう、この三人は顔見知りだ。

「おいおい、ここどこだよ?」

 アナログ時計のところに居た人物、笹川 和仁(ささかわ かずひと)は、誰に聞くでもなくそう呟くと、冷たいコンクリートの床から上半身を起こし、壁に寄りかかるように座りなおして、乱暴に自分の頭をかいて見せた。

「さぁ。そもそも、どうして僕たちがこんなところに居るか? ですよ。僕、今までこんなところ来た事ないですし、ここに見覚えもないんですけど。誰かが、僕たちをここに運んだってことでしょうかね?」

 和仁の独り言に答えるように、広美から見て、テーブルを挟んだ向こう側に居た人物。雪代 良祐(ゆきしろ りょうすけ)は部屋を見回しながら、その場に立ち上がった。

「てか、何で私たち三人だけなの?」

 広美はそう呟くように言うと、三人はそれぞれに顔を見合わせて、首を捻る。
 状況的には、三人はまったく同じ条件でここに居るようだった。

「広美さんも和仁も、昨夜の事はどこまで覚えてます?」

 良祐の言葉に、広美と和仁は互いに顔を見合わせて、昨夜の事を考えはじめた。

 広美、和仁、良祐。この三人は顔見知りだった。
 いや、顔見知りというよりも、もう少し友好的な関係と言える。
 三人は同じ大学に通う、仲の良い友人同士と言っても差し支えないだろう。
 三人の昨夜の行動は同じだった。
 昨夜は、大学の親しい友人たち十人ほどで、居酒屋に集まり飲み会をしていたのだ。その中にこの三人も加わっていた。
 気の合う友人同士が集まれば、当然騒いで楽しく飲んで、羽目も外したことだろう。
 飲み会が開かれたのが久々だったことも手伝って、時間までは覚えていないが、三人はかなり遅くまで飲んでいたような気がした。

「かなり遅くまで飲んでたよね? 最後のほうは人数半分になってたし……でも私、その後ことは全然覚えてない」

 広美がそう言うと、和仁と良祐も広美の言葉に同意した。
 昨夜は久しぶりの飲み会で、確かにいつもより多く、広美はお酒を飲んだ記憶があり、大分騒いでいたのは間違いない。
 もう帰るという仲間たちを、引き止めて困らせたような記憶もある。
 だが、明日の講義に出なくてはいけない仲間の半数は、結局帰ってしまい、だからと言って、残り半分が大人しく帰ることはなく、気がつけば、広美は自分の許容量を遥かに超えて、お酒を飲みすぎ、記憶まで飛ばしたに違いない。
 広美には、そうとしか思えなかった。
 三人はそれぞれに室内を見回して、この部屋の中を確認するが、広美が最初に見たときと同じ、部屋には何の変化も見られない。

「つか、今何時だ?」

 そう言った和仁に、広美が和仁の上の方にある壁の時計を指差し。

「あの時計で十時三十分」

 と答えた。
 三人の視線が、壁のアナログ時計に向かう。

「てか、合ってるのかよ? あの時計。しかもアナログじゃねーか。昼か夜かわかんねーぞ」

 そう言って眉間に皺を寄せる和仁に、良祐が困ったように小さく笑う。

「僕の携帯の時計とは合ってるみたいですよ。ちなみに、今は午前みたいですね」

 そんな良祐の言葉に、和仁は気のない返事で頷いていた。
 一人でこの狭い室内に居るわけじゃない。そのことが、三人には、いや。少なくとも広美には、不安を緩和させる作用があった。
 だからと言って、三人でずっと、ここでおしゃべりを続けたいとは思えないが。

「ねぇ。とにかく、こんなところ出ようよ……なんか気味悪い」

 広美はそう言うと、自分の体を抱きしめるように両手で自分の両腕をさする。室内の寒さも手伝って、この空間はさらに不気味に感じたのだ。
 つまるところ、出来ればこんなわけの分からない場所からは、出たいと言うのが行き着く答えだった。
 広美が和仁や良祐にそう言えば、二人に広美の意見を否定する要素はなかった。広美の言うとおり、ここは確かに気味のいい場所には感じられなかったのだから、それも当り前だ。
 狭い室内。窓のない壁。全面をコンクリートで囲まれ、まるで箱の中にいるような気分にさせる。互いの顔が辛うじて見えるほどの明かりはあるが、それでも室内は薄暗く、今が昼間と言われても、到底信じられないほどだ。
 広美の言葉に、和仁はどこか億劫そうにその場に立ち上がり、広美もそれに続いてその場に立ち上がると、部屋の中央にあるテーブルの上を、ようやく見ることが出来た。
 とは言え、テーブルの上には、小さな短冊状の白い紙が四枚置いてあるだけで、他に目立つものは何もなかったが。それをわざわざ手に取って、見ようという気も起きなかった。
 そして、三人がその場に立ち上がると、三人の視線はこの部屋唯一と思われる扉へと向かう。
 鉄製の錆びた扉で、見た目には錆びている以外、とくに変わったところはないように見えた。
 三人の立ち位置から考えて、扉に近いのは広美と良祐だが、扉のノブは広美の居る側についているし、しかも、広美本人がここから出たい。といの一番に言ったこともあり、広美は渋々ながら、扉に近付いて、扉のノブへと手を伸ばす。
 だが、いざ出ようとノブに触れ、それを回そうと手に力を入れる広美だが、どうしても、薄気味悪さは拭えなかった。

「おい。出るならさっさと出ろよ」

 広美が戸惑っていれば、和仁が少し強い口調で広美を急かし、広美もそんな和仁の言葉に、少しだけ苛立たしさを感じて、和仁に言い返してやろうと思うが、それはここを出てからでも十分に間に合うことだ。そう思い、今度こそ扉を少しだけ開けた。
 いきなり扉を全開まで開けられなかったのは、広美がやはり、どこかこの空気の不気味さに感化されていたせいだったのだろう。
 だが、人が覗けるだけの狭い隙間を作ったところで、扉の向こうには、ただ闇一色が広がるばかりで、何も見えずに、広美はさらに扉を少し開くが、やはり向こうは見えない。
 なぜなら、広美たちが居る部屋よりも、扉の向こうはさらに暗く、光など微塵もなかったのだから。
 ここを出たいとは思っても、さすがに、この部屋の不気味な雰囲気や、見えない不安から、広美はこの闇の中に足を踏み出すことができなかった。
 でも、もしかすれば、何か見えるかもしれない。そう思った広美は、今度こそ扉を人が通れるほどの広さまで開き、闇の奥を見つめる。
 だが、闇の中に見えたものは、光でもなければ、出口でもなかった。

「きゃぁぁぁっ!」

 広美は『それ』を見た瞬間。思わずノブから手を離し、その場から後退り、今見たそれが、何であったのかを必死に考え、否定るすしかなくなった。

「どうしたっ」

 突然、広美が悲鳴を上げたことに、残りの二人も驚き、和仁は広美に声をかけると、彼女の肩に触れて、その顔を覗き込んだ。
 すると、広美の体は少し震えていて、顔色も青くなっているように見える。

「おい。どうしたんだよっ?」

 和仁がそう言って、広美の肩を少し揺すれば、広美は小さく息を飲み込んで、ゆっくりとした動作で右手を上げると、扉を指差した。
 中途半端に開いたままの扉の奥を指差し、広美は『それ』を見つめる。
 そんな広美の態度に、和仁は眉間に皺を寄せると、広美の指差した扉の向こうへ顔を向けた。
 扉の向こうには闇が広がり、はっきりと何かを見極めることはできないが、それでも、和仁の位置から見えるものに、和仁も両目を見開いていた。
 室内の明かりに照らされて、鈍く光る赤い液体。そして、人の形をした『部品』が無造作に、そして不自然に液体の中に置いてある。
 まるで、壊れた人形のように、本来あるべき形を成していない『それ』は、人形のようにも見えるのに、とても生々しい。
 和仁もそれを確認してしまえば、広美のように悲鳴を上げないまでも、その足は、『それ』から少しでも離れようと、後ろへと下がっていた。
 そんな二人の様子に良祐も動き、扉への奥へと目を向けて『それ』を見てしまえば、良祐が息を飲み込む音が、広美と和仁の耳にも届く。
 いくらかの沈黙が室内に充満し、壁にかかったアナログ時計の音だけが室内を支配していたが、その沈黙を最初に破ったのは、良祐だった。

「まさか、人……ですか?」

 良祐がそう言うと、広美は大袈裟なほど両肩が跳ねて、扉から体全体で良祐の言葉を否定するように、顔をそむけて見せる。
 頭の中ではそれを否定しようと努力している広美にとって、良祐の言葉は聞きたくない答えの一つであったのだから仕方ない。

「わかるかよ。確認、するしかねぇだろ」

 和仁はそう言うと、自分で言った言葉に、嫌そうに顔を歪ませた。
 良祐の言うように、扉の向こうにある『それ』が、本当に人だったらと思うと、和仁でなくとも嫌な顔を見せるだろう。
 それは良祐も同じことで、和仁の言った『確認する』という言葉に、心底嫌そうに顔を歪めて見せるが、それでも、和仁の言うこともまた、間違いではないのだ。と諦めたような溜息を吐き出していた。

「それもそうですね。それで、誰が行きますか?」

 良祐がそう聞けば、広美は二人から離れ、自分を強く抱きしめて見せると、首を何度も横に振る。
 そんな広美の様子を脇目に、和仁と良祐は互いに顔を見合わせ、何かを諦めたように、和仁が溜息を吐き出した。

「言いだしっぺは俺だ。俺が行く」

 そう言って、和仁は扉の奥に入り、少しだけその扉を閉める。

 しばらくして、和仁は扉の向こうから戻ってくると、重々しい雰囲気で扉をしっかりと閉める。和仁の顔が先程よりも青く見えるのは、気のせいではないだろう。
 和仁の顔色を見れば、ある程度の予想はできる。だからこそ、良祐は心配そうに和仁に顔を向け、

「大丈夫ですか?」

 と聞くが、和仁は疲れた顔で首を横に振り、だるそうに部屋の奥ほどまで来て、壁に背を預けるようにして座った。
 最初に和仁が目を覚ました時計の下だ。

「本物……みたいだ」

 何が。或いはどれが。とは言わないが、和仁の言葉で、広美も良祐も、和仁の言葉の意味を悟る。

「いや……なんで」

 広美は両膝を抱えて、小さく縮こまる。
 和仁も良祐も広美の言葉に何も答えない。いや、答えられないと言うほうが正しい。
 だが、広美は首を横に振ると、和仁の言葉を否定した。信じたくない。と言う気持ちが強いからだ。

「で、でも。見間違いってこともあるんじゃない? だって、暗いし。誰かのイタズラかもしれないし。ね?」

 広美の言うことも間違いではないだろう。
 三人の居るこの室内だって十分に薄暗いが、扉の向こうは、ほぼ暗闇なのだ。辛うじて、三人の居る室内だけは、ある程度の明かりがあり、その明かりのおかげで、向こうの『それ』が見えた程度だ。
 その状態で、あれが『本物の人』だったと、どうして言い切れるだろうか?  しかも、ここに居る三人は、医者でもなければ、専門的知識もないただの学生でしかないのだ。そんな自分たちが、恐ろしい目に合う理由すらないのではないだろうか。
 広美にはそう思えて、わざと明るい声で、誰かのイタズラであることを主張するほうが、よっぽど現実的に思えた。
 だが、広美の作った明るさに、和仁の方が苛立った顔を見せて、軽く舌打ちをすると、広美を冷たい目で睨む。

「じゃあ、何でお前はさっき、自分で確かめに行かなかったんだ? 俺の言うことが信じられないなら、自分で見に行けよっ」

 和仁は苛立たしげに、語尾を強めて言うと、広美は怯えるように両肩を跳ねさせた。
 和仁の言うことも、また間違ってはいないだろう。だからこそ、彼が苛立たしげに広美を責めるようなことを言っても、また仕方ないことかもしれない。
 これがイタズラだと思うなら、自分で行動し確認すれば済むことだ。扉の奥に足を進めればいい。もしかすれば、その先に出口があるかもしれない。
 だが、広美はそれをしなかった。なぜなら、扉の奥にある『それ』が、あまりにも生々しかったからだ。
 そして、もしも扉の向こうにある『それ』が本物なら、ここに『それ』を作った人物が居てもおかしくない。扉の向こうで、自分たちの誰かがあの扉を通り、向こうに行くのを待ち構えている何者かが居るかもしれない。そう考えてしまったからだ。
 女の自分が、変質者に勝てるわけがない。そう思えば、広美にとって、男である和仁や良祐が、自分を庇ってくれるのは当り前ではないかとさえ思える。
 だから、和仁が広美にたいして、怒ったように言葉を吐き出すのも、嫌味を言うのもお門違いだ。と思えてならない。

(私は力だってないのに。こんなことに巻き込まれる理由もないのに、なんで私が和仁にヤツ当たりされないといけないのよ)

 広美はそう思うと、途端にイラついてくる。

「そういう言い方しなくてもいいじゃない! ただ、イタズラって可能性もあるんじゃないかって、そう思っただけなんだから!」

 広美は叫ぶように言い返すと、和仁を睨んでみせるが、そんな広美の態度にさらに腹を立てた和仁は、その場から立ち上がり広美に近付くと、広美の腕を強く掴んで立たせようと引っ張った。

「じゃあ自分で見てこいよっ! 血だらけのバラバラ死体に触って確かめろ! 体の中身全部ぶちまけてる死体を、俺たちの目の前に持ってきて『作り物』ですって証明しろっ!」

 和仁はそう怒鳴ると、広美の腕をさらに強く引っ張り、無理矢理その場に立たせると、広美が痛がるのも無視して、今閉めたばかり扉の前に、広美を連れて行こうとする。
 だが、和仁の言葉に、広美は吐き気すら感じて、あまりの恐ろしさに和仁の腕から必死に逃げると、部屋の隅まで行って、自分の体を強く抱きしめ、その場に縮こまった。

「いやっ! 行かない!」

「テメーが言い出したんだろうがっ!」

 広美が硬く縮こまり、体を震わせて、精一杯に和仁を睨み上げてみせても、和仁はただ苛立った顔のまま、逃げた広美を追い、無理にでも立たせようと広美に近付く。
 もうそれ以上、後ろには逃げられないとわかっていても、広美は壁に体を埋め込みそうな勢いで、和仁から逃げようとしていた。

「待ってください!」

 だが、そんな二人のやり取りを良祐が止める。

「和仁、もういいじゃないですか。広美さんだってわかったでしょう? 和仁に嫌な役を任せた僕にだって責任はありますから、お願いです。喧嘩なんてしないで、これからどうするかを考えましょうよ」

 良祐はそういいながら、和仁と広美の間に割って入り、正面から和仁の肩に、そっと手を添える。良祐の心配そうな顔に、和仁も小さく舌打ちをして見せるが、和仁は大人しく壁際に戻り、腰を下ろした。
 一先ずは、良祐のおかげでこの場は落ち着いたようだ。と広美は心底、安堵して溜息が漏れる。





 それから、しばらくは誰も口を開こうとはしなかった。
 それぞれに思うことがあるだろうが、これからのことを考えると、どうしても通らなければいけない問題がある。
 この室内は、どう見ても鉄の扉以外の出入り口は存在していないように見えた。多分、それはほぼ間違いない。
 窓もなく、他の出口を探すのはほぼ無意味だ。と広美は思った。
 そうなると、この部屋の唯一の出口は、鉄の扉以外ない。そして、その向こうに、外へ通じる出口があるとすれば、あの暗闇の向こうしかない。
 そこで問題なのが、和仁の言う『死体』の存在だ。
 それが『本物の死体』ならば、少なくともその『死体』を作った何者かが居る。という事になる。もしかすれば、あの暗闇の向こうに、身を隠しているかもしれない。
 そして、その誰かか居るならば、一人になるのは危険ではないだろうか。三人で固まっている方が、よっぽど安全ではないだろうか。広美はそう思うと、とりあえず、ここに居る限り安心できる。と思った。
 だが、良祐が先ほど言ったとおり。これからのことを考えるなら、いつまでもこの部屋に居るわけにはいかない。
 そうも思うと、広美はこれからのことを、どうやって、何から考えなければいけないのか。それすら迷ってしまっていた。

「とりあえず、この部屋には役に立ちそうなものは無いようですが。一応、調べてみますか?」

 しばらくの沈黙は、良祐の言葉で破られた。
 広美も和仁も良祐の言葉に頷くと、まずはじめに、自分たちの荷物の中身を確認することにした。広美が目を覚ましたときと同じように、和仁と良祐の荷物はそれぞれのそばに置いてあり、三人とも中身はまだ確認していない状態だ。
 荷物の中身を確認して、とくに何かを無くしたとか、何かが入っていたとか、そういうこともなく、めぼしいものと言えば。

「そう言えば、携帯。これで外に連絡すればいいんじゃない?」

 広美はそういうと、自分の携帯電話を取り出し、ディスプレイ画面を見つめるが、画面は真っ黒のままで、電源を押しても何も変わらなかった。

「電池切れですかね?」

 良祐にそう聞かれて、広美は重く息を吐き出すと、良祐に顔を向ける。

「そうみたい。良祐は? さっき時間見てたでしょ?」

 広美がそう聞けば、良祐は困ったような笑みを見せた。

「電池はまだあるんですが、残念ながら圏外なんです」

 良祐はそう言うと、自分の携帯のディスプレイ画面を広美と和仁に見せる。そして、広美と良祐は和仁へ顔を向けるが、和仁は頭をかくと。

「俺、携帯どこやったっけ? ねーんだけど。昨夜の店を出る前までは持ってたはずなんだがなぁ?」

 そう言って、和仁は自分の消えた携帯電話の行方を、懸命に思い出そうとしていた。

「呆れた。普通忘れる?」

「まぁ、昨夜はだいぶ飲みましたからね」

「うるせぇよ。ああ、ダメだ。多分、昨夜行った最後の店だな」

 少しだけ不貞腐れたような顔を見せる和仁に、広美は呆れた顔を見せ、良祐は困ったように笑みを見せる。
 だが結局のところ、外への連絡ができないことに変わりはない。
 そして、三人は次に、室内を調べはじめた。
 テーブルと椅子以外、この室内に家具は一切無い。
 まず、先ほどの錆びた扉。鍵はかかっていなかったが、それ以上に気になる点はない。
 次にコンクリートの壁や床を調べるが、仕掛けがあるとか、抜け穴があるとか。隠し通路がある。という事はなく、何の変哲も無いただのコンクリートだ。
 そしてアナログ時計に目を向ける。この室内は天井が高いため、踏み台や足場になりそうなものでも使わない限り、天井近くの壁にかけられた時計には、一番背の高い和仁だって、絶対に手が届きそうにもない。
 天井を見上げても、裸電球が、か細い明かりをほんのりと、部屋を辛うじて照らし出している以外、変わったものも、目を引くものも見当たらず、三人の視線は自然と、最後に残る部屋の中央に置かれたテーブルへと椅子に注がれた。

「残るは、これだけか?」

 そう言って、和仁はその場にしゃがみこむと、テーブルや椅子の裏を見つめるが、とくに何も無いと、和仁はまたその場に立ち上がった。
 この無機質な部屋にあって、このテーブルと四客の椅子だけが異質だ。
 三人は中央にあるテーブルの前に立ち、テーブルを見下ろす。三人はそれぞれ、自分の目の前にある椅子を動かそうとするが、そのどれもが動かず、この椅子が座るために用意された物ではない。という事だけは確かだと感じ、テーブルも椅子と同様に、三人がかりでも動かすことはできなかった。
 テーブルと四客の椅子の足元を見れば、頑丈そうな金具でしっかりと固定されている。
 そして、三人は他に何かできないかと、椅子やテーブルを動かそうとしてみるが、とくに何もないと分かるだけだった。
 何をしても動かせないとなると、残るは、テーブルの上に置いてある小さな短冊状の白い紙のみだ。
 テーブルの上に置かれた四枚の白い紙は、それぞれの椅子の前に置かれていて、特殊な紙のようには見えないし、ペンも置いていないところを見ると、何かを書くために用意されているものでもないように思える。

「つか、なんだこれ?」

 和仁がそう言って紙を上から覗き込むが、ただの白い紙だ。何も書いてはいない。

「紙ですね。貼り付けられている。という訳でもないみたいですよ」

 良祐はそう言うと、その紙に手を伸ばして、紙を持ち上げた。

「あ。良祐、後ろに何か書いてある」

 丁度、良祐と向かい合うように立っていた広美からそれが見えた。
 広美の言葉に良祐は紙を裏返し、そこに書いてある文字に、少しだけ驚いた顔を見せる。

「これ『雪代 良祐』って、僕の名前が書いてありますよ。じゃあ、もしかして二人の前の紙も……」

 良祐は紙から顔をあげて、和仁と広美を見る。良祐と目があった二人は、お互いに自分の前にある紙に手を伸ばし、それを裏返してみた。
 そこには、良祐が言うとおり、広美の持つ紙に『坂口 広美』と書かれ、和仁の持った紙には『笹川 和仁』と、ワープロ文字で印刷されていた。

「どういこと。これ」

 訝しそうに眉を寄せる広美の言葉に、和仁も良祐も答えられるはずがなかった。
 だが、三人の名前の書かれた紙がそこあった。という事は……三人の視線は、最後の四枚目の紙に向けられる。つまり、ここには『誰かの名前が書かれている』ということだ。
 そして、最後のこの紙に書かれているはずの名前は、もしかすれば。と三人の視線は、四枚目の紙から、部屋の扉へと向けられた。
 正確に言うなら、扉の向こうに居るだろう『死体』の方だ。
 だが、あの死体の名前か? などとは、誰も口に出したくないからだろう。だから、そのまま三人は口を閉じる。
 だが、四枚目の紙を見ない。という選択肢はありえなかった。
 見なければ済む。という問題でもない。
 確かに三枚の紙には、三人の名前があったのは事実だが、だからと言って、残りの紙に、扉の向こうにある『死体』の名前が書かれている。とは言い切れない。
 もしかすれば、もっと違うメッセージがあるかもしれないし、誰かの名前だとしても、その誰かが三人の知り合いの名前だと言う確証もない。
 三人にとって、まったく関係のない無関係の人物だと言う証拠もないが。
 なんにしても、この紙を確認しないことには、なにも分からないのだ。
 それに、確認しないままでは、やはり気持ちが悪い。そう思い、広美は最後の紙に手を伸ばし、それを持ち裏返す。
 だが、広美は紙を見た途端に青ざめ、投げ捨てるように紙をテーブルへと放った。
 広美の顔は、先ほどよりも血の気が引き、青くなっているように見える。
 そんな広美の態度に、良祐は不思議そうに首をかしげ、和仁は、先ほどの事もあってか、多少苛立った顔を見せて、少しだけ乱暴に、広美の手放した紙を拾い上げた。
 和仁はその紙に書かれていた文字を見つめ、紙に書かれていた文字を読みあげて、驚きに両目を見開く。

「小林 勇次(こばやし ゆうじ)だと? 何の冗談だよ……これ」

 和仁は、楽しくもないのに顔に笑みを形作っていた。
 紙に書いてあるとおりに、自分で読みあげたはずの名前に、和仁だけじゃなく、良祐も難しい顔を見せて、広美は和仁を睨みあげる。

「勇次な訳ないじゃないっ! やめてよっ!」

 広美は和仁に怒鳴るが、それはもう、悲鳴にも近い声だった。
 だが、和仁は広美の声に苛立たしさを隠そうともせず、広美を上から見下ろすと、テーブルを強く叩くように、手に持っていた紙を叩きつけて、あたりに渇いた音が響く。
 そして、和仁は扉の方を指差した。

「向こうに居る『あれ』が、勇次じゃねぇって事くらいわかってんだよっ! 勇次なわけねぇだろうがっ!」

 和仁はそう怒鳴り散らすと、苦しそうに顔を歪めたが、すぐに怒りの表情に変わり、広美を恐ろしい顔で睨み下ろす。
 そんな和仁の顔に、広美は少し恐ろしさは感じたが、自分に関係のない事で怒鳴られたことが、何よりも腹立たしく、広美も負けじと和仁を睨みあげる。
 今にもまた、広美と和仁が口喧嘩をはじめそうな雰囲気の中、良祐は静にテーブルへと手を伸ばすと、和仁が置いた紙を拾い、その字をじっと見つめ、はっきりとした声を発した。

「確かに、これは性質の悪いイタズラですね。勇次なわけがない。勇次は……彼は一年も前に死んでいるんですから」

 今にも怒鳴りあいをはじめそうだった広美と和仁は、良祐の静かで、それで居てしっかりした言葉を聞き、口をつぐむ。
 そして、二人が良祐に顔を向けると、良祐も紙から顔をあげて、二人を見つめ返した。

「だけど、これで一つだけわかったことがあります」

 良祐はそういうと、紙をテーブルの上に置く。

「わかった、こと?」

 広美は良祐の言葉に首を傾げてみせた。
 良祐は広美の言葉に頷くと、しっかりとした口調で、確信を持って答える。

「僕たち三人だけがここに居る理由です」

 良祐の言った意味に、苦虫を噛み潰したような顔を見せ、和仁は良祐の言葉の続きを口にした。

「勇次と……親しい関係だった。てことか」

 和仁の言葉に、良祐はしっかり頷いてみせるが、それを頭から否定したのは広美だった。

「じょ、冗談でしょ! 親しい関係って、ただの友達じゃないっ! 第一、何で私なのっ? 私は別に、勇次と親しかったわけじゃないっ!」

 そう言って、広美は和仁に奴当たり同然な言い分けを怒鳴った。
 当の怒鳴られた和仁は、広美の言い訳と剣幕に、怒りとも呆れともいえないような顔で、広美を見下ろす。

「おい、マジで言ってんのか? お前が当時、勇次と付き合っての知らねぇヤツなんざいねぇぞ」

 和仁の言葉を聞くと、広美は息を飲み込むように小さく、悲鳴のような声をあげた。
 そして広美は、和仁から良祐へと視線を移し、良祐と視線が合えば、良祐も何か気まずそうに、広美から視線を外す。
 広美はその良祐の態度にも、血の気が引きそうだった。
 まさか、和仁と良祐に、勇次と付き合っていたことを知られているとは、思いもしなかったのだ。
 確かに、広美は小林勇次と付き合っていたことがある。もちろん、男女の関係としてだ。
 付き合っていた。と言っても、一方的に勇次に迫られて、あまりにもしつこかったため、仕方なく一時的に付き合ったと言うだけだ。
 だが、勇次と自分が形だけでも付き合っていたことを、誰にも知られまいと、広美は細心の注意を払っていたはずだった。
 とくに、和仁と良祐には、絶対に知られたくないことだったのだ。
 なにしろ、大学での人気は凄まじい二人だったから、競争率も高く、二人と仲良くなりたい女性なら、それこそ甘い餌に群がるアリのように居て、現在もその人気が衰えることはない。
 そんな彼らとの友好関係ができたのは、勇次のおかげも半分あり、今現在も彼らと友好関係があることに、広美は優越感すら抱いていた。
 そして過去には、和仁に淡い恋心を持っていたときもあったが、現在では良祐に気持ちが傾いている状態だ。
 しかも、勇次と和仁、そして良祐は、本当に仲のよい、親友同士だったのを、広美も知っているのだ。
 その三人の中で、誰よりも、良祐と勇次が一番仲がよかったことも、よく知っていた。
 だからこそ、この二人にだけは、勇次との関係を知られたくなかったのだ。と広美は違う意味で顔を青くさせる。
 そして、広美は意味もなく誤魔化すように、否定するように何度も、首を横に振って見せた。

「あ、あれは勇次がしつこかったから、形だけでもいいって、そう言ったのは勇次だし! それに、私は別れたいからって、一ヶ月もしないで別れたわよ!」

 そんな慌てる様子の広美に、和仁は鼻で息を吐き出し、くだらないと言いたげな顔で、良祐に顔を向ける。

「めんどくせぇー女。結局お前だって親しい関係だったことに変わりねぇじゃねーか。なぁ? 良祐」

 和仁にそう聞かれても、良祐は困ったような顔で笑うしかない。

「僕にそういう話を振らないでくださいよ。和仁」

「あ〜。そうだよなぁ。そういやぁ。俺よか、良祐の方がよっぽど勇次と仲良かったもんなぁ? 噂じゃぁ『恋人』みたいだとか言われてたくらいだしな?」

 和仁はそう言うと、いやらしい笑みを顔に浮かべて、良祐を見つめた。
 どうやら、和仁の不機嫌の矛先が自分に向いてしまったと、良祐は和仁の思わぬ発言に驚いた顔を見せたが、すぐに心の底から嫌そうに顔を歪める。

「そういう心無い噂を流してたのは和仁ですか。おかげで僕と勇次が、仲良くホモの中だと思われて、それは多大な迷惑を被ったんですからね。まぁ、そのせいで勇次はだいぶ酷い目にあったみたいですけど……」

 良祐はそう言うと、和仁を睨む。
 いくら良祐が優しいとか、あまり怒らない性格をしているとか言われても、言っていいことと悪いことがある。
 良祐は、冷めた目で和仁を責めるよに睨み続けて、その視線に、さすがにふざけ過ぎたと、和仁は良祐から視線をそらした。
 そして、誤魔化すように頭をかいて見せると、和仁は天井を見つめる。

「まぁ、ただの噂だろ? お前がマジでホモだったら、俺はお前との友情を、今後どう処理するかを悩むところだ。だけど……マジな話。一部じゃ勇次は事故じゃなくて、自殺した。なんて噂もあるらしいな」

 和仁とはそう言って壁際に腰を下ろすと、壁に背中を深く預け、どこか気だるそうにあくびをかみ殺していた。
 和仁が座り込んだのを見て、広美も良祐もそのまま、壁にもたれるように座ると、広美が和仁へと話の続きを促す。

「それこそ噂でしょ? 何でそんな噂が出てるかが謎じゃない」

 広美はそう言うと、両膝を抱えて和仁を上目で見つめた。大体、一年も前の事故をほじくり返して、それを噂してる人物の方が、よっぽど面倒臭いやつじゃないかと思う。
 だが、広美の言葉に興味がないのか、和仁は天井に向かって両腕を伸ばすと、だるそうにその場で横になり、自分の腕を枕に頭を支えると、両目を閉じる。

「噂は色々あるなぁ。恋人にフラれたとか。良祐に浮気されたとか。実は広美に、屋上から突き落とされたとか。まぁ、噂好きの連中は、今でも好き勝手言ってやがる」

「僕のホモネタまだ引っ張りますか。だけど、広美さんに突き落とされた。というのは、ずいぶんと乱暴な噂ですね」

 良祐はそう言って、眉間に皺を寄せて不快感を顔に浮かべた。
 そして、和仁に顔を向けると、彼を責めるような目で見つめる。
 良祐の物言いに、彼の不機嫌さを感じ取った和仁は、瞑っていた目を開けて良祐を見れば、案の定、和仁を責めるような目と視線が重なるが、その噂を流しているのは和仁ではないのだから、自分を責めるような目で見られても困る。と和仁は肩をすくめ、また目を瞑る。

「俺が流してるわけじゃねーよ」

「それは分かりますが、今こうしてその噂を広げてるじゃないですか」

「はいはい。わるーございましたぁ〜。勇次の名前見たら、なんか色々と思い出しただけだつーの」

 和仁はやはり面倒臭そうに、あくびをして見せる。
 良祐もそんな和仁に、どこか仕方なさそうに息を吐き出すが、少しだけ声のトーンを落として、口を開いた。

「まぁ。冗談はさて置き、僕も一つ思い出した噂があります。和仁の言うとおり、勇次の事故死が、最近になって自殺の可能性が高いことを、警察が言っていた。と言うものです」

 あくまで噂ですが。と良祐は最後に付け加える。
 広美も和仁も良祐も、その後の言葉は続かなかった。

 そもそも、小林勇次は和仁や良祐とは、歳が一つ違う。そして、広美は勇次と同じ歳だった。
 この四人が出会うきっかけは、当時大学で、広美と勇次が知り合うところからはじまる。
 もともと和仁と良祐は幼い時からの幼馴染であり、勇次も和仁とは中学のときからの知り合いだった。
 勇次が和仁や良祐の居る大学に行くことを決めたのも、ある意味では自然なことだったのかもしれない。
 そして、大学で知り合った広美に、勇次が一目惚れをしたことが、この四人の友好関係のはじまりだ。
 その関係は、表向き順調に見えたことだろう。
 勇次が事故で死んだ。あの日までは。
 それは丁度、一年前の話だ。大学からそれほど遠くないところに、十五階建ての有名なマンションがあるのだが、勇次は、そのマンションの前で、死体で発見されたのだ。
 そもそも、なぜそのマンションが有名なのかというと、そのマンションの屋上が、学生たちの間では、いいデートスポットになっていたからだった。
 誰でも簡単に入れて、マンションの住民や管理人も、滅多に屋上には上がってこない。大学から近いこともあり、待ち合わせや、そこで時間を潰すカップルも少なくない。そんな場所だ。
 そして、そのマンションの屋上の利用者が多いことや、当時は、屋上にフェンスなどもなかったことから、当時の勇次も、その屋上で誰かと待ち合わせをしていた可能性が高く、誤って転落したものと結論付けられた。
 現在は、そのマンションの屋上には鍵付きの格子扉が取り付けられ、屋上もフェンスが取り付けられている。以前よりは利用者は減ったようだが、まだ利用する人間は少なくない。
 とにかく、発見された当初は、勇次と分からないほど顔が潰れ、彼の所持品から、死亡した人物が、小林勇次だと判断されたのだ。
 当時はDNA鑑定というシステム事態がなかったため、所持品からしか特定はできなかったが、そのせいなのか、一部の噂では、小林勇次は、実は生きている。という噂が、今現在も囁かれている。
 既に火葬された勇次から、今さらDNAは取れない。そのことも、噂を広げる要因になっているのかもしれない。
 広美は、それらのことを思い出しながら、首を横に振った。
 広美からすれば、馬鹿らしいと思える噂は後を絶たない。そう思うのだが、勇次が死んだと言うのは、あくまで警察がそう断定したからであって、あの転落事故で死んだのが、本当に勇次だったと言う証拠は、確かに存在していない。
 だが、広美たちが今、直面している現状は、明らかに誰かの仕業だし、それが勇次の関係者が起こしているだろうことには確信がある。それが本当に勇次の仕業だと言うつもりはないのだ。
 死んだはずの勇次が、今さら自分を苦しめることなどできない。広美はそう思って、和仁と良祐に顔を向ける。

「でもさ。じゃあ、私たち三人だけをここに集めた理由とか、誰がやったとか、そいつ目的とかってなんなの?」

 広美はそう言って眉間に皺を寄せる。
 勇次と関係のある三人。もしかすれば、殺人犯が広美たちをここに運んだことになる。だけど、ここに運んだ目的がわからない。
 三人を集めて、一体何をさせたいのか。広美には見当も付かない。それに、この部屋の扉に鍵がかかっていないことを考えれば、犯人は別に、広美たちを閉じ込めては居ないのだ。
 本当にここに出口があるか、それは分からないが。
 少なくとも、犯人の目的が分かれば、ここから出ることもできるのではないか。広美はそう思うのだ。
 広美の言葉に、和仁と良祐は互いに顔を見合わせたが、良祐は首をかしげ、和仁はやはり興味がないのか、また目を瞑ってしまう。

「それが分かれば苦労はねーよ。ヒントなさすぎだ。とにかく、ちょっと寝ようぜ……昨夜の酒がまだ、抜けきってねぇような気がすんだよなぁ」

 和仁はそう言うと、大きなあくびをしたかと思うと、広美と良祐に背を向けて、完全に寝る体制だった。
 そんな和仁の態度に、広美は怒りよりも、呆れるばかりだ。こんな緊迫した状況で、よく眠る気になれるものだ。と広美は眉間に皺を寄せる。
 和仁のマイペースぶりに、先ほどから感じていた恐怖や不安は半減していたが、そこまで気を抜ける和仁に、広美はある意味羨ましいとさえ感じた。
 だが、この室内に一人きりではないと言うのは、確かに心強いと言えるし、良祐も広美も、和仁のように、扉の向こうまで行って、あの生々しい『死体』を間近で見てはいない。
 だからこそ、広美や良祐が多少の余裕を見せても納得できそうなものだが、和仁がそれを言うことが、広美には信じられない。
 能天気、ポジティブ、言い方はどうあれ、彼の大雑把な性格が、こんなところにも発揮されるものなのかと思うと、文句を言う気すら失せる。

「良祐。これ、いいの?」

 広美は呆れた顔をそのままに、和仁の背中に呆れた視線を送り目を細めた。
 良祐も和仁に顔を向けて、呆れたように苦笑いを見せると、自分の手元にある荷物を漁り、何かを取り出す。
 そして、目的の物を見つけた良祐は、それを広美に投げ渡し、広美もそれをうまい具合に受け取る。
 一体何を投げて寄こしたのかと、良祐から受け取ったそれを確認すれば、それは、良祐がいつも好んで飲んでいる、未開封の水のペットボトルだった。

「逆に言えば、和仁も精神的に参っているのかもしれないですね」

 良祐の言葉に、広美は受け取ったペットボトルの水から、和仁に顔を向けて、そして良祐のほうに視線を移した。

「もらっていいの?」

 広美が良祐に向かってそう聞けば、良祐は微かに笑みを見せて頷く。

「僕の分はありますから、気にせずに飲んでください。それに、広美さんも少し休んだ方がいいですよ。眠れないまでも、両目を閉じて体を休めるたほうがいい」

 良祐はそう言うと、自分の荷物からもう一本、中途半端に中身の入った水を取り出して、蓋を開けると、中身を一口の見込んだ。

「和仁か広美さんが起きるまで、僕が見張りをしていますから、起きたら、これからの事を話し合いましょう」

 良祐はそう言うと、顔に笑みを浮かべてみせる。
 そんな良祐の顔に、広美も少しだけ安心するような気持ちになり、良祐から受け取った水の蓋を開けて、中身を飲みこんだ。
 室内の寒さのおかげか、広美の飲んだ水は、思ったよりも冷たくて、その分とても飲みやすい。
 水を飲み、広美は良祐にお礼を言うと、自分の体を横たえた。
 良祐の言うとおり、眠れないまでも、体を休めておいたほうがいい。そう思い、広美は両目を瞑る。
 こんな状況では、どう頑張っても眠れないだろうが、最初にここで目覚めてから、とにかくやな事ばかりが続き、正直に広美も精神的に疲れてしまっていた。
 だから、良祐の言葉はありがたいし、一人では、こんな所できっと休めやしなかっただろう。
 体を横たえ、両目を閉じるると、体がとても重く感じる。と広美は落ち着いてきて、鈍い頭の痛みがまだ続いていた事を思い出す。
 それも昨夜のお酒のせいだ。そう思いながら、広美は闇の中でまどろんだ。
 部屋の中には、和仁と良祐の息遣いと、アナログ時計の音だけが響いていた。


 気がつけば、広美は鈍い頭の痛みと、体のだるさを感じ、いつの間にか自分が眠っていた事に、少しだけ驚いた。
 和仁の事は言えないな。と広美はこっそりと溜息を吐き出すと、自分はどのくらい眠っていたのかと、体を仰向けに倒し、時計を確認しようと両目をゆっくりと開く。
 だが、天井を見つめた広美の視界には、白いコンクリートではなく、この部屋にあっては、それは色鮮やかな『赤』だった。
 まるで、今書いたばかりのように、その赤は天井を駆け、鈍い光に反射し、生々しく広美の視界に映っている。
 一瞬、何が起きたのか、頭が停止してしまったように、何も考えられなかった広美だが、天井の赤い何かが、文字のような形をしている事を、やっと頭が認識すると、その赤い文字から雫が一粒。広美の額に落ちた。

「いやぁぁぁぁぁーー!」

 それが引き金になり、広美の頭は急激に赤い文字を認識し、そして『赤』から連想される『液体』の存在に、広美の脳内は、恐怖と不安が支配し、心がなにか得体の知れないものに侵食される。
 この狭い室内から逃げることはできない。それでも広美は、あまりの恐ろしさに、這うようにして部屋の隅まで逃げると、その場に固まった。
 広美は自分の出す大声に、どこか遠くで聞こえるサイレンのような、自分とはまったく関係ない音だけが、部屋中に響いているような感覚だった。

「なっ! なんだっ!?」

 広美の悲鳴に飛び起き、耳障りな彼女の悲鳴に、和仁は広美へと顔を向けた。
 寝起きという事もあり、和仁は先ほどの事もあって、広美に文句の一つでも言ってやらなければ気がすまない。そう思って、怒鳴りつけてやろうと広美を睨むが、広美の姿を見つけた瞬間。和仁は口を閉じ、言葉を飲みこんだ。
 部屋の隅に固まり、これ以上ないと言うほどに体を縮めて、天井を凝視し続けている広美は、和仁が起きたことにも気がついていない。
 それどころか、先程よりも青ざめた顔で、かみ合わない歯をカチカチと鳴らし、恐怖で引きつった顔は、まるでホラー映画に出ている死体のように、恐怖で顔の表情が固まり血の気がない。
 そんな広美の異様な様子に、和仁は広美が見つめている先、天井へと視線を向けた。
 そこには、未だ濡れたように光る赤い液体が、天井に何かの文字を浮かび上がらせている。
 和仁がじっと天井を見つめていれば、時々、天井から滴る液体に、それがまだ濡れていることを教え、和仁はもう一度広美に視線を向けて、彼女の額に赤い液体が、いくつもついていることに、彼女の悲鳴の理由を納得させた。
 そして、和仁はもう一度天井へと顔を向け、そこに書かれた文字を心の中で読みあげる。
 そこには、真っ赤な文字で『約束覚えてる? Y』と書き記してあった。
 その文字は、広美の荷物が置いてある丁度真上あたりに書かれていて、多分、そこに広美が居たに違いない。と和仁は思った。広美の額の赤い液体を見れば、それはすぐに分かる。
 まだ液体が乾ききっていないところを見れば、書かれてからまだ時間もあまり経っていないだろう。
 だが、先ほど広美や良祐と確認したとおり、三人の中で一番背の高い和仁でさえ、この部屋の天井には手が届かない。
 その上、この室内にある椅子やテーブルは、床のコンクリートで固定されていて、動かす事は出来ないはずで、では、一体誰があの天井部分に、あの文字を書くことができたと言うのか。
 そして、あの文字の意味はなんだろうか。あの赤い液体は、一体誰の、なんの液体か。そして、文字を書いた誰かは、三人に気づかれずに、どうやってこの部屋に入り、この文字を書いたというのか。
 疑問は沢山あったが、和仁はふっと室内を見回して、明らかに一人足りないことに気がついた。
 そう、広美のあの悲鳴にも無反応だったもう一人、この部屋には、良祐の姿がない。

「おい。おいっ広美! パニくるのは後にしろっ! 良祐はどこだっ?」

 和仁に大きな声で呼ばれ、広美はやっと周りを確認した。
 起き抜けに異様な光景が広がっていて、自分はそれどころではなかったが、和仁に言われて、広美ははじめて良祐が居ないことに気がついたのだ。
 最後に見た良祐の居た場所には、彼の持ち物の荷物も水もあり、その場所に彼だけが居ない。
 そんなに眠っていた記憶はないが、広美は良祐の居ないことに、焦りを覚える。
 だが、和仁に良祐の居場所を聞かれても、広美にも分かるはずがなかった。
 何も答えられず、焦りに挙動不審気味な広美に、和仁は先ほどまで苛立ちを押しつけることはせず、どこか諦めたように時計へと目を向けた。
 そして、和仁は時間を確認すると、少し驚いたような声を出し、その場に立ち上がると良祐の荷物があるところで足を止め、その中身を漁る。
 それを広美は不思議そうに見守るが、しばらくして和仁は小さく舌打ちすると、広美へと顔を向けた。

「良祐の携帯がなくなってる。あいつ、鞄にはしまわないで、自分で携帯持ってたか?」

 和仁にそう聞かれても、広美は首を横に振るしかなかった。

「お、覚えてないわよ」

 広美の答えに、和仁はまた舌打ちをした。
 広美の焦りようを見れば、彼女が和仁の欲しい答えをいえないことは予想できない事ではなかったが、和仁にとっては、彼女の態度事態が、和仁を苛立たせる要因になっているのだ。
 だからと言って、和仁の苛立ちをそのまま広美にぶつけてみても、ただのヤツ当たりでしかなく、それをやったところで、なにも変わりはしない。
 和仁はそう思い直し、なるべく静かに、口を開く努力をした。

「俺が寝たのが二時前だったはずだ。とりあえず、あの時計が合ってるなら、俺は七時間くらい寝てたことになる」

 和仁はそう言うと、眉間に深い皺を作り、時計を睨むように見つめる。
 そんな和仁の顔と言葉に、広美は信じられないような思いで、和仁と同様に時計へと目を向けた。
 確かに、時間は最初に確認したとときよりも、ずっと進んでいるようだ。
 現在時刻は、壁の時計で見ると、九時五十分になっている。

「広美、お前。何時ごろ寝たか覚えてるか?」

 和仁の言葉に、広美は和仁に顔を向けて、首を横に振った。
 広美は寝るつもりも、眠気も感じてはいなかったのだ。それに、広美が目を瞑る前には、良祐が確かに居て、自分で時間を確認しなくても、大丈夫だと安易に思っていたのだ。
 だが、その良祐が居ない。そうなれば、広美と和仁がやるべきことは、見えてくる。
 和仁はしばらく何かを考えるように、難しい顔を見せていたが、何かを決めたようにその場に立ち上がると、和仁は扉へと足をすすめた。
 そして、扉の前でいったん足を止めると。

「良祐が一人で、向こうに居るとは考え難いが……この部屋に居ないってことは、向こうに居ると考えた方が自然だろ」

 和仁の言うとおり、そう考えるのが、今は一番自然かもしれない。広美もそう思えるが、だが向こうには『死体』がある。それに、暗闇だ。
 そんなところで、良祐が一体、一人で何をしていると言うのだろうか。
 広美はそう思うと、最悪なことしか頭には浮かんでこない。そして、それを考えてしまうと、広美の体は恐怖に震えて、コンクリートに根を下ろしてしまったように、動かすのが難しく思えた。

「行くの?」

 広美が、か細い声でそう聞けば。

「向こうに居るとすれば、良祐は一人だ。そっちの方がよっぽど危ねぇだろーが。ここの出入り口は、この扉しかねーんだからな。ちょっと見てくる……お前はここに居ろ」

 和仁は広美に背を向けたままでそう答えると、扉のノブに手をつけた。
 だが、和仁の手はノブを捻り、向こう側に行くのを、ためらっているように広美には見える。だが、それも間違いではないはずだ。
 三人の中で唯一、向こう側に行き『死体』を確認しているのは、和仁だけだったし、こちらに来れば現物もなく、ここに一人で居るわけでもない。
 いくら和仁が能天気だからといって、先ほど見たものをもう一度見たいと思うわけもないのだ。
 見えない状況に居るからこそ、能天気に振舞えるし、ある意味では、一時しのぎでも現実逃避ができていた。
 だが、まさに今、またその現物のある向こうに行かなければならない。それを考えれば、和仁が戸惑うのも、仕方のない事と言えるだろう。
 広美だって良祐のことは気にかかる。心配だってしている。
 だが、和仁のように、良祐のために向こうに行くことはできない。恐ろしくて、動けないのだ。
 和仁と代わってやりたいとも思えない。彼について行く気すら起きない。
 向こうに一人で見に行くのも嫌だし、正直に言えば、ここに一人で残されるのも嫌だった。
 だが、この部屋の出入り口が一つしかないなら、この部屋に居る方が、まだマシと思える。
 広美はそう思い、自分の体を強く抱きしめると、天井の文字へと顔を向けて、その文字を頭の中で読み返し、自分の体が、足元から頭の先まで震えるのがわかった。
 赤い液体は、どうしたって『血』連想させるし、広美の額を濡らした液体は、微かに鉄臭さを発しているし、なによりも、その文字の意味するものが怖かった。

『約束覚えてる? Y』

 この文字を見ただけなら、広美だって訳の分からない言葉でしかなかった。
 だが、この文字を見るまでの間に、和仁や良祐との会話の中で、思い出したくもないことが、次々と思い出されてしまい、広美は『Y』の頭文字が誰かと言うのを、考えるまでもなく頭に思い浮かんでしまっている。
 それを思い出すと、まるで自分が責められているような錯覚すら起きて、広美は恐怖を感じるのだ。
 そうして、広美が何かに怯えている最中も、和仁は自分の中の何かと戦い、ようやくノブを掴む手に力を入れると、ノブを回して、扉をゆっくり開けようとした。
 ところが、扉は何かに押されているように、和仁の方へと勝手に開き、和仁はその場で動くことができなくなってしまった。
 勝手に開いた扉から、こちらの部屋に倒れこむようにして、良祐の体が床に転ぶ。
 扉が勝手に開いたと感じたそれが、良祐の重みで開いたのだとわかったときには、あたりにむせ返るような鉄臭さが広がり、倒れた良祐を中心に、床に赤い液体が広がり、和仁の靴も汚していく。
 扉の向こうに寄りかからせて、座らせていたのか、床に仰向けに倒れこんだ良祐は、倒れた衝撃に身動ぎせず、それどころか、その状態から少しも動く気配がない。

「りょ……すけ?」

 和仁のせいで、広美の位置からはよく見えないが、確かに和仁の間から見える服などは、良祐が着ていたものと同じだった。だから、広美は和仁に聞くようなつもりで、その名前を口にしたが、その声は、蚊の鳴くような、小さな音だった。
 それでも、この静かな部屋には十分に響く。
 倒れた良祐を見下ろして、動くことを忘れていた和仁だが、良祐自身から湧き出るように、じわじわと床を汚す赤い液体に、和仁はただ言葉を失うばかりで、良祐をじっと見つめていれば、良祐の服も顔も腕も、見えている部分全部が、赤い液体まみれで汚れているのだ。
 その光景に、和仁はただ信じられずに、自分のズボンが汚れることもかまわず、その場に膝をつき、良祐の体に触れた。

「冗談だろ? なぁ。良祐? 嘘だよな?」

 和仁がいくら呼びかけても、その体を揺すっても、良祐は少しも動かなかった。

「りょう……死んで……る、のか?」

 和仁の言葉は呟きで、戸惑う口調で、その言葉を聞いた瞬間、広美は全身に衝撃が走ったように、体が異常に跳ね上がる。

「やだっ! いやっ! なんで、なんでこんな事になるのっ! 帰りたいっ! もういやっ! 帰してよっ!」

 広美はヒステリックにそう叫び、自分の両耳をきつく押さえ、両目をきつく瞑る。
 なにも聞きたくないし、なにも見たくない。その意思表示と、良祐が誰かに殺されたかも知れないと言う絶望。
 そして、次は自分の番かもしれない。という恐怖に、広美は軽いパニックに陥りながら、金切り声のような、悲鳴とも言えない声で、訳の分からないことを叫び続けた。
 この室内で、広美の声はやたらと響き、聞く人間全てを不快にするのに十分と言える威力がある。
 だが、和仁はそんな広美の言葉にも、彼女の耳障りな悲鳴にも、何の反応も示さず、床で転がる良祐の体を支え起こし、良祐を扉の向こうへと連れて行くと、扉が静かにしまる。
 その間にも、広美はずっと耳障りな悲鳴を上げて、何かを口走り、和仁が向こうへ行ったことにも気がついていない。
 そして、しばらくして向こうの部屋から戻ってきた和仁は、いい加減にうるさく騒ぐ広美に、抑えていた怒りが抑えきれなくなってきた。
 何よりも、自分のことばかりを考えて、良祐の事を気にかけない広美に、和仁は頭にきたのだ。
 和仁は、鉄の扉が壊れるのではないか。というほどに力の限りで扉を閉めて、広美を睨みおろした。
 和仁が乱暴に扉を閉めたことにより、室内には大きな音が響き、その音に驚いた広美は、和仁の方へと意識を向けることになった。そして、和仁に顔を向け、彼と視線が合い、広美は和仁の目に怯える。
 彼の瞳には、怒りが滲み出ていて、それは広美を睨み殺しそうなほど、鋭く恐ろしく映るのだ。和仁は、本気で怒っていると、広美には感じた。
 逆に言えば、今まで一度だって、彼がここまで本気で怒ったことがあっただろうか。と広美は彼を怒らせたことに、怯える。

「あ……かず……」

 今度は焦りを覚えて、広美は和仁の名前を呼ぼうと口を開きかけるが。

「ちょっと黙れ」

 和仁は広美を睨みおろしたまま、低い声でそう言うと、扉の床に広がっていた赤い液体を避けて、扉の横の壁に寄りかかるようにして、その場に腰を下ろす。
 よく見れば、和仁の体には、良祐のものだろう。血が腕や足、服にもべったりと貼り付いている。
 そして、和仁は静かに息を吐き出して、天井を見上げた。
 和仁が見ているのは、あの赤い何かで書かれた文字だ。それをじっと見つめたあと、和仁は広美に顔を向けて、ゆっくりと口を開く。

「俺や、良祐だってこんな事に巻き込まれて、気分悪りぃんだよ。テメェだけが被害者ですってツラしてんじゃねぇ」

 和仁の言うことはもっともだった。ここに連れてこられたのは、なにも広美一人ではない。和仁も、そして良祐だって同じなのだ。
 まして良祐は、理由も知らないうちに、あんなことになってしまった。
 和仁から見れば、広美の態度に腹が立たないわけがない。
 だが、広美からすれば、和仁の言い分は理不尽に感じた。


「わ、私だけが被害者だなんて言ってないじゃない。でも、私は女なのよ? 力だってないし、勇次と一番仲のよかったのは良祐じゃない。和仁もそうでしょ。私じゃないわ」

 広美がそういうと、和仁は苛立たしげに舌打ちしてみせる。

「この状況で、性別とか関係あると思ってんのか? 俺が犯人なら、一番やりやすいお前を先に殺すぞ。まぁ、もしも苦しめるつもりなら、最後まで残すけどな」

 和仁の言葉に、広美はのどの奥で小さく悲鳴を上げた。だが、和仁は怯えた顔を見せる広美に、さらに言葉を続ける。

「とにかく、犯人に何か目的がるなら。考えられる可能性は二つ。俺たち三人に恨みがある。或いは、そのうち誰か一人に恨みがある。ってことだ。まぁ、良祐が居ない今、可能性は俺かお前だ」

 和仁はそういうと、天井を指差した。

「そこで重要になってくるのが、あの文字の意味だろ。言っとくが、巻き込まれたのは俺と良祐だからな。天井の文字、どの位置に書かれてた? お前の真上だ」

 広美は和仁の指差す天井を見上げ、そして首を横に振る。
 和仁の言うことは、確かに間違っていないが、広美はそれを受け入れたくないし、何で自分が狙われなければならないのか。そればかりを考えてしまうのだ。

「あのイニシャルの『Y』は間違いなく勇次のことだろうが、『約束』ってのは、俺にはさっぱり心当たりもねぇ。良祐にも関係ねぇだろうな。残るはお前だ。何かあるんじゃねぇのか?」

 和仁の言葉に、広美が和仁へと顔を向ければ、和仁の目には、怒りと同じくらいの冷たさが見えていた。
 和仁の瞳は、明らかに広美を責めるもので、広美は和仁の顔を見ていられなくなる。
 広美は、自分は悪くない。自分は関係ない。そう何度も心で繰り返し、和仁の言葉に、首を横に振り、知らないことを主張した。
 そんな広美の態度に、もう何度目かも忘れてしまったが、和仁はまた舌打ちをするが、とくに声を荒げることもなく、淡々と言葉を続ける。

「お前が覚えてねぇのか。或いは約束そのものがないのか。俺は知らねぇけどな」

 和仁は、そこで言葉を一回切ると、広美をじっと見据え。

「お前、少しは自覚しろ。お前のせいで、もう二人も人が死んでんだぞ」

 そう言って、和仁は口を閉じた。
 広美のせいで、二人が死んだ。和仁のその言葉は、広美の中に、重い鉛でも押し込んだように、広美の体を痛めつけるようだった。
 だが、広美は和仁を恨みがましい目で睨む。広美には自分のせいだと思えなかったからだ。和仁に責められて、確かに気分の悪いものを感じる。だがそれは、あくまでも無実の自分を責める和仁のせいだ。と思うからだ。
 そもそも、なぜ自分ばかりが責められなければならないのか。広美はその理不尽さに、苛立ちさえ覚える。
 ここに和仁や良祐を連れてきたのは広美ではないし、広美だってここに連れてこられた一人であって、和仁に目の敵にされて、責められる理由などない。
 だが、それこそ責めるべきは、ここに自分たちを連れてきた『誰か』だ。広美はそう思うと、自分をこんな目にあわせた『誰か』を、責め立ててやりたい気持ちになる。
 そして、勇次の存在が、この現状にどのように関係しているのか。そんなことは、広美にとってどうでもいいことだった。
 自分と勇次が何か関係あると思われるほうが、広美にとっておかしいことだと言えるのだから、三人をここに連れてきた『誰か』は、大きな間違いを犯しているとしか思えない。
 だが、広美は不意に思い出したことがある。
 それが、天井に書かれている勇次との『約束』と、関係しているとは思えないが。
 約束と言えば、『それ』も確かに約束だったかも知れない。そういう意味では、心当たりと言えなくもない。そう思ったが、広美からすれば、あんな些細なものは、約束ともいえない。
 それなら、やっぱり自分の責任でも、自分に関係しているとも思えなかった。
 だから、広美が思い出した『約束』については、和仁には黙っておくことにした。
 言ったら、間違いなく広美を責めるに決まっているし、きっと向こうにあるだろう二体の『死体』も、自分のせいにされるに決まっている。
 広美が手を下したわけでも、広美が誰かに頼んだわけけでもないのに。
 それに、勇次との『約束』を知っているのは、今はもう広美だけだ。なにしろ、勇次はもう、とっくに死んで、この世には居ないのだから。
 だが、広美はそれを考えて、ふっとおかしな事に気がついた。
 再三、勇次を思い出すようなことが続き、広美が思い出した勇次との『約束』は、確かに勇次と広美の間だけで交わされた口約束で、他の誰かが知ることではない。
 つまり、勇次が死んだ今、それを知っているのは広美本人だけなのだ。
 それに、広美との『約束』を、口の堅い勇次が誰かに漏らすことは絶対にないし、それ以前に、勇次が誰かに漏らすこと自体が不可能だった。
 広美は天井を見上げる。
 天井に書かれた『約束覚えてる? Y』の赤い文字を見つめ、広美はごくりとのどを鳴らし、唾を無理矢理飲みこんだ。
 いまだ、乾ききっていない赤い液体が、部屋の薄暗い光に鈍く光を反射している。
 その文字を見つめ続けていると、広美はある考えが頭をよぎった。
 もしも、広美のその考えが正しいとするならば、広美の考えるとおりの『約束』だとするならば、天井の文字を書いたのは、勇次本人という事になる。
 だが、そうなると。勇次本人がここに居なくてはいけないことになり、もっと言えば、勇次が生きていることを認めなくてはいけなくなるのだ。
 だが、勇次が生きていると考えるのは、あまりにも無理がある。広美にはそう思えた。勇次が死んでから一年が経っているのだ。一年間もの間、誰にも知られずに、身を隠し続けることができるものだろうか?  それならまだ、勇次は死んでいて、その勇次の幽霊が現れた。と思うほうが、遥かに現実的にも思える。
 だが、お化けや幽霊に、こんな手の込んだことができるものなのだろうか?  そもそも、幽霊がこの世に存在しているのだろうか?  では、もし万が一。勇次が生きていたとする。それでも、無理があるようにしか広美には思えない。
 勇次本人が生きていたとしても、勇次は一体、どうやって三人もの大人を、誰にも知られずに、ここに運び込むことができたというんだろうか。
 勇次は決して体格のいいほうではなかった。一人で大人を三人も運べるような人物ではない。
 広美はそう考えて、何度も首を横に振り、自分の考えを否定しようとする。
 たぶん、勇次以外で二人の、広美と勇次の『約束』を知るものなど、存在しない。
 広美はその結論に達すると、背筋に冷たいものが走る。
 これ以上考えたところで、自分の頭が前向きな答えを導き出せるとも思えない。広美はそう思い、それ以上余計な事を考えないように、おかしな方向に考えが向かないように、内心慌てて和仁へと顔を向けた。

「で、でも。向こうの部屋に、出口とかなかったの?」

 広美の質問に、今まで黙っていた和仁は、首を横に振る。

「あんだけ暗いとな。出口どころか、あの部屋に何があるのかさえ、よく見えねぇな」

「そう、なんだ」

「ああ、窓はあったが、高さは俺の身長の二倍以上はあるだろうし、あの小ささじゃ、お前でも通るのは無理じゃねぇか」

「窓……それって一ヶ所だけ?」

「見えてる場所だけなら、一ヶ所だけだ。なんなら、通れるかどうか試してみるか?」

「いい。とりあえず、他の方法探してみようよ」

「他の方法が……あればな。とにかく、俺は少し休む。ちっと疲れた」

 和仁はそう言うと、壁に深く背中を預けて、両目を瞑る。
 広美も、深く息を吸い込むと、ゆっくりと息を吐き出してから、壁にもたれるように背中を預けた。
 少しだけ落ち着いた気がすると、広美は先ほど叫んでいたせいだろう。のどが少しヒリヒリとする感覚に、溜息のようなものを吐き出して、先ほど良祐からもらった水を一口だけ飲みこんだ。
 さほどのどは渇いていないが、叫びすぎて痛むのどには、水の冷たさが心地よかった。
 広美は顔をあげて時計を確認すると、もう既に十一時二十分を回っていた。後数分もすれば、日付が変わる。
 和仁の言うとおり、広美もなんだか疲れた気がしていた。こんな場所で、何が起きるか分からない状況で、気持ちが休まるわけもない。
 それに、広美の鈍く痛む頭は、いまだよくなる気配もないし、体も相変わらずだるい。
 お酒は完全に抜けているだろうが、頭も体も目も重く感じて、両膝を抱えて膝に頭を乗せると、広美もまた両目を閉じた。
 だが、今度は広美も寝るつもりはない。
 また眠ってしまって、これ以上怖い思いはしたくない。
 そして、部屋の中には相変わらず、時計の音だけが響き続ける。





 ぼんやりと、広美は時計の音に耳を傾けた。
 だが、次の瞬間には、広美は慌てて顔をあげる。
 自分はいつの間に眠っていたのか。と広美は時計に目を向けた。
 時間は十一時五分を指してる。時間が戻ることはない。と言うことは、広美は少なくとも半日は寝ていたことになる。

「うそ、私……そんなに寝てたの?」

 眠るつもりはなかった広美は、予想以上に眠っていた自分に文句の一つでも言ってやりたい気分になるが、それよりも、予想以上に眠っていたはずの自分の体に、何の変化もない事のほうが問題だった。
 鈍い頭痛に、体のだるさ。目蓋の重さもあってか、不快感は寝る前よりも酷い状態だと言える。
 広美は時計から視線を外し、体のだるさに溜息を吐き出すが、とにかく今は、これからの事を和仁と話し合わなければならないだろうと、扉のところに居るはずの和仁へと顔を向けた。
 さすがに、和仁は寝ていないだろうと。広美はそう思ったが……広美の向いた先に、和仁の姿はない。
 いくらなんでも、この狭い室内に和仁が隠れられるような場所はない。それ以前に、和仁が広美から隠れる必要などないだろう。
 つまり、和仁がこの部屋に居ないという事は、扉の向こうに居るという事だ。
 だが、和仁が向こうに行く用などあるだろうか。広美はそう考えると、突然の不安に襲われて、慌てて自分の考えを否定するように首を横に振った。
 部屋の中を見回せば、良祐の荷物同様に、和仁の荷物もこの部屋に置かれている。
 もしも広美を置き去りにしたのなら、和仁の事だ、荷物は全部持っていくに決まっている。だからこそ、和仁は広美を置いて、どこかに消えたわけではないだろうことが、広美にも分かった。
 それならばと、広美は別の可能性も考えた。
 向こうの部屋に居るなら、和仁は出口を探しに行ったのかもしれない。
 広美がずっと眠っていて、起きそうもないから、起こすのも面倒になって、一人で向こうに探しに行ったのだ。そう考える方が、広美にとっては安心できる。
 だが、そんな気休め程度の安心が、広美の気持ちを落ち着けてくれるわけもなく。耳を澄ませてみても、聞こえるのは、アナログ時計の音だけで、広美は恐怖に体が震えた。
 いくら考えないようにしても、別の事を考えようとしても、ここに、自分が一人で取り残された。という考えが頭の中にぐるぐると回ってしまう。
 それは、広美にとって、とてつもない恐怖で、心臓の動悸が激しくなり、呼吸も浅く、速くなる。
 落ち着かなければ。と思えば思うほど、広美は焦り、無意味に大丈夫を心の中で繰り返しても、不安が増すばかりだ。
 和仁は戻ってくる。すぐに帰ってくる。そう自分に言い聞かせ、広美は扉をじっと見つめるが、室内には静寂だけが支配し、時計の音さえかき消してしまいそうだった。
 耳が痛くなりそうな静寂に、広美の緊張がピークになりそうだった。そのとき、静まりきった室内に、錆びた扉の開く、金属の不快な音が響き、広美は体を強張らせる。
 心の中で、必死に和仁だと何度も言い聞かせるが、体は緊張と恐怖で動かない。その上、のどは引っ付きそうに渇いているし、腰も錘をつけたように動かない。
 扉を凝視し続ける広美に、目の前の扉はゆっくりと、そして、少しだけ開いたと思えば、パタリと扉の隙間から、何かが落ちてきた。
 それは、床に落ちて、力なく床に投げ出され。広美はそれを見つめ、目が離せない。
 よく見れば、それは赤黒い液体にまみれた、人の腕だとわかると、広美は声にならない悲鳴を上げていた。
 ただその腕を見つめたまま、広美は目も逸らせずに、音の出ない悲鳴を上げ続け、逃げ場のない壁に、体を押し付けるが、広美はふと我に返ると、少しだけ開いている扉へと視線が移る。
 闇の広がる扉の向こう。見えない先から、何かがこの部屋に入り込んできそうな錯覚に、広美はさらに恐怖で体が震えた。
 そして、広美は体の底からわきあがる恐怖に、扉を閉めようと、扉までの短い距離を何度も躓き転びながら、ようやく扉に辿り着き、その扉を閉めようとする。
 だが、扉に引っかかっている腕が邪魔で、扉は閉まらず、広美はその生々しい腕に触れることをためらうが、その腕を蹴り飛ばして扉の向こうにやると、ようやく、扉を閉めた。
 そして、扉から目を逸らさないように後退り、扉から一番遠い壁際まで辿り着くと、広美は腰が抜けたように、壁に体を預けてその場にしゃがみこんだ。
 広美の頭の中で様々なことが廻る。一体誰が、自分をこんな目に合わせるのか。さっきの腕は誰のものだったのか。どうして勇次が関係するのか。自分が一体何をしたのか。
 そういったことがグルグルと廻り、最終的には『今度は自分の番だ』という答えにたどり着く。
 いくら考えても、広美の考えはそこに辿り着き、他の答えは出てこない。  そして、広美が底知れない恐怖と不安に怯えていると、扉の向こうから、何かが聞こえた気がした。
 広美はそれに体を強張らせ、聞きたくもないのに、その何かに耳も意識も集中してしまう。
 はじめは微かな音だった。だが、それは次第に大きくなり、扉の向こうからそれが聞こえていることがわかると、その音が、人の声だと分かる。
 そして、それが人の声と分かると、それは扉を挟んだすぐ向こう側から。

『広美……約束だよ?』

 と、はっきり言った。
 扉を隔てた向こう側から、確かに聞き覚えのある声が、広美の名前を呼んだのだ。

「ゆう……じ?」

 その声はどこまでも静かで優しく響くのに、その音に、広美の恐怖は体の底から湧き上り、広美の髪の先まで震わせる。
 広美は驚きと、体を震わす恐怖に、その場から立ち上がり、部屋の扉から一番遠い壁まで逃げて、壊れたように首を振った。
 その恐怖は広美の声を凍らせて、彼女から悲鳴すら取り上げ、心を蝕む恐怖に、広美の目には生理的な涙が溜まっていく。
 だが、どれだけ広美が逃げようとしても、この狭い室内で逃げる場所などない。
 そして、広美を呼ぶ声は、向こうから扉を三回、軽く叩き、開けて欲しいと、催促するように広美の名前を呼んだ。
 広美の頭の中は真っ白だった。何かを考える余裕すらない。
 ただ、今起きている現象に、心ごと呑まれ、気がつけば、恐怖を吐き出すかのように、広美は大声で叫び散らし、それは言葉にすらなっていなかった。

『……広美』

 声はまたそう囁くと、今度は少しだけ強く扉を叩いた。
 その声に、扉を叩くその音に、広美はただ怯え、恐怖に叫ぶ。
 そして、声が広美を呼ぶたびに、扉を叩く音は強くなる。
 声はどこまでも穏やかで、広美を優しく呼ぶのに対して、扉を叩く音は強く、殴るような音へと変わっていく。
 そして、広美の頭の中には、ある人物が浮かんでいた。
 この状況に追い込まれた理由とも言える。
 広美を呼ぶその声も、扉を開けろと催促する大きな音も、広美には、何もかもが彼女の考えを裏付けるように思えた。

 事の発端は、些細なことだった。
 当時、広美は和仁に淡い恋心を抱いていたが、和仁は女性にほとんど興味がなかったのか、彼のそばに居るのは良祐と勇次だけで、違う友人でも、結局は男同士で遊んでいることを、和仁は好むような奴だった。
 和仁と特によくつるむ良祐も、また女性の間では人気があり、この二人と友好関係を持ちたい女性なら沢山居たが、彼らは、自分達の中に女性が介入するのをよく思っていないように、広美も、そして他の女性達も感じていた。
 和仁や良祐から言わせれば、自分達が女性に人気があったことなど、知りもしなかったのだが、そんな二人と、とくに仲がよかったのが勇次だ。
 だが、この二人と違い、勇次はあまり目立つタイプではなく、特に誰からも注目されるような事はなかったのだが。
 目立つ二人と一緒に居れば、当然、勇次も悪い意味で目立ってしまい。それが気に入らない誰かが、勇次のあることないことを噂し、酷い目にもあう。
 その噂の一つが、勇次と良祐がホモだと言うものだ。確かに仲がよかったが、そこまでの付き合い方ではない。
 だが、そういう噂を流す連中は、これといった特徴のない勇次が、学内でも何かと目立つ二人と一緒に居るのが気に入らなかったのだろう。
 和仁や良祐の知らないところで、勇次が様々な嫌がらせを受けていたのは、広美の方がよく知っている。
 広美だって、人気のある二人と仲のよかった勇次が羨ましかったり、時には、勇次が気に入らず、悪口を言ったこともある。
 だが、人気の二人はなぜか勇次がお気に入りで、勇次を悪く言ったり、勇次にひどいことをしようものなら、和仁と良祐が必ず庇っていた。
 広美はそれを知り、つまり、勇次と仲良くなれば、人気の二人と仲良くなれるかも知れない。そう考えたのは、ごく自然なことだったはずだ。
 だから、広美はある日、丁度よく勇次をいびっていた誰かから、勇次を庇い、勇次と仲良くなることに成功した。
 勇次と仲良くなれば、勇次が優しくて、素直で、馬鹿がつくほどお人好しだ。と言うのが分かり、そんな勇次に人気の二人を紹介されるのに、それほど時間もかからなかった。
 確かに、ここまでは広美の思惑通りだったと言える。だが、困ったのは、勇次が広美を好きになってしまったことだ。
 勇次に優しく接し、彼を助けた広美を、勇次が好きになるのもおかしいことではない。
 そして、勇次と違い、和仁や良祐が広美の魂胆を知っていても、自分達から突き放さない理由は、まさに勇次が広美を好きだったおかげだと言える。
 広美の浅はかな思惑など、和仁や良祐からすれば、すぐに分かることだったが、広美の考えが二人にバレていたことなど、広美本人は知らないことだ。
 逆に言えば、和仁も良祐も、広美を勇次に近づけたくはなかったが、勇次が思いを寄せている広美を、邪険には扱えなかった。
 四人の交流がしばらく続く中で、勇次の思いはどんどんと膨らみ、ついには広美も一時的にではあるが、付き合うことを了承せざる得えなくなったほどだ。
 それだけ、勇次は広美を好きだったのだ。
 だが、広美は和仁が好きで、勇次はどちらかと言えば好きではない。だから、広美はすぐに勇次に別れ話を持ち出した。ひと月もしないうちに。
 だが、勇次は広美と別れたくなかった。愛していたのだ。広美に冷たくあしらわれても、彼女の手に触れることさえできなくても、そばに居られるだけでよかったのだ。
 だから、勇次は広美に『約束』をし、広美も『約束』をした。
 待ち合わせに使われる、マンションの屋上で、勇次は携帯で広美に電話して、広美に「本気を見せる」と約束し、広美も「やったら信じる」と約束した。
 つまり――勇次はあの屋上に、広美へ自分の気持ちの証明するために居たのだ。

「ち、違う……あ、あれは、私のせいじゃない。私の……」

 広美の声は、ドアを殴りつけるように叩く音にかき消される。

「あ、あれは、アンタがしつこいからっ。本気じゃなかったのっ!」

 広美は、今度は音にかき消されないように、大声で叫ぶと、両耳を塞ぎ、その場に蹲った。

「だ、だれも、本気で飛び降りるなんて思わないじゃないっ! そう言えば、アンタが諦めると思ったのよっっ!」

 広美の叫び声に、まだ足りないと扉を殴る音が重なる。

「あの屋上から飛び降りろって言ったのは本気じゃないっ! 全部嘘だったのぉっ! お願いっ! 許してっっ! 勇次っっ!」

 悲鳴のような広美の声が室内に響くと、扉を殴りつけていた音は、途端になくなった。
 急にしんと静まり返る室内に、広美は押さえていた両手を耳からゆっくりとずらし、恐る恐る顔を上げて、扉の方を見つめる。
 そして、金属の軋む音をさせて、鉄の扉はゆっくりと開き、広美はそれに両目を見開いた。
 扉がほんの少しだけ開き、その間からゆっくりと何かが伸びてくると、その何かは扉の縁を掴み、それが血塗れの手だと広美が気がつくと同時に。広美はのどが張り裂けんばかりに叫んでいた。
 だが、その声はかすれ、音にもならず、空気に溶ける。
 そして。

「広美。迎えに来たよ」

 手はそう言うと、この室内に入ろうとして、扉をゆっくりと押す。
 だが、広美の記憶はそこで終わる。
 彼女の頭の中で、なにか大事な線が『ブツリ』と音をたて切れるのを、確かに広美は聞いていた。





 晴天の雲も少ない午後。
 風は穏やかに木々の葉を揺らす。
 大学のそばにある小さな公園で、よく三人で集まっては、様々な計画を立てていた。
 次の連休はどこに行こうかとか。あの映画が最近の話題だとか。好きな女性の話しとか。馬鹿な話をしたり、悩みを相談しあったり、大学の講義が終わってからの待ち合わせは、いつもここだった。
 三人にとって、ささやかで毎日が幸せだったころ。
 もう、返らぬ思い出となった今でも、残された二人は、ここに足を運んでいた。
 砂場と、小さなジャングルジム、手入れのあまりされていない芝生、古いベンチも、何もかもが、思い出と変わらずに、そこにある。思い入れの強い場所。
 様々な思い出を頭に浮かばせながら、ベンチに腰を下ろし、一度空を見上げてから、ポケットの中の携帯電話を取り出すと、良祐は携帯のディスプレイ画面を見つめた。
 どこかに電話をかけるでも、メールを送るでもなく、ただじっと画面を見つめる。
 そんな良祐をなでるように優しい風が通り過ぎ、それに顔を上げれば、良祐のすぐそばまで近付いてきていた和仁の姿が良祐の目に留まった。
 そして、今着いたばかりだろう和仁は、良祐に軽く手を上げて見せると、良祐の隣に腰を下ろし、空を見上げてから小さく息を吐き出す。
 暖かく穏やかな風に、二人の髪が遊ばれる。柔らかな日差しには、もう冬の名残はない。

「わりぃ。待たせたか?」

 和仁はそう言って、良祐に顔を戻し謝って見せるが、良祐は優しげに微笑むと、首を横に振って見せた。

「それほど待ってないですよ。僕もぼーっとしてましたからね。今日は天気がいいから、日向ぼっこには丁度いいです」

 良祐はそ言うと、笑みを深めるが、和仁はそんな良祐に呆れた顔を見せる。

「お前は年寄りか。まぁ、確かに今日は天気がいいけどな。つか、眠くなるよなぁ」

 和仁はそう言うと、両腕を空へと突き出すように伸ばし、ベンチの背もたれへ背中を預けた。
 良祐はそんな和仁の態度に、小さく笑い声をもらす。

「ははっ。それじゃ僕とあんまり変わらないですよ。それで、彼女の様子はどうでした?」

 良祐の言葉に、和仁は呆れたような顔を見せて鼻で笑う。

「あれな。ありゃ、もうダメだ。面会に行っても、なんかブツブツ呟いてて、俺のことも見えてねぇらしい」

 和仁は疲れたようにそう答えると、うんざりした顔を見せる。
 そんな和仁に、良祐も困ったような顔をして笑った。

「そうですか」

 返事をして、良祐は顔を下げると、持っていた携帯電話を見つめ、ふっと溜息のような息を吐き出した。良祐の顔には、複雑な心情が読み取れる。
 そんな良祐の様子に、和仁は顔を空へと向けて、その眩しさに目を細めた。

「実際の話……まさか、これを狙ってたのか?」

 和仁は静かにそう呟くと、良祐に目を向ける。
 良祐は和仁に視線だけを向けるが、それもすぐに携帯電話へと戻し、肩をすくめて見せた。

「まさか」

 良祐はそう一言だけ答えると、顔に笑みを浮かべたまま、持っていた携帯電話のボタンをいじる。
 すると、携帯から聞き覚えのある声が聞こえはじめた。

『広美、約束だよ? 俺、本当に君が好きだ。証明するから、だから……』

 どこか良祐と似ている声が、携帯から聞こえて、和仁は顔を向けた。

『はいはい。本当にできたら信じてあげるわよ』

 広美の声がそう答えると。

『本気だからね。俺、君のために』

『しつっこいわねっ! 分かったわよっ! 約束してあげるわよっ!』

 良祐は、広美の声がそう答えたのを聞き終わると、携帯のボタンを押して、広美と誰かの会話が終わる。

「勇次の携帯電話に残されていた最後の通話録音の記録です。もう、僕は何度これを聞いたことか……忘れちゃいました」

 良祐は自嘲気味に笑うと、顔から笑みを消した。

「事故だったら、別にあそこまでしませんでしたよ。僕はただ、本当のことが知りたかっただけだ」

 良祐はそう言うと、何かを耐えるように手の中の携帯電話を強く握り締める。

「まさか、あの程度で壊れちゃうとは思いませんでした。あんなに心が脆い人だったなんてね……本当、この手でトドメでも刺してやればよかったです」

 そんな、冗談とも本気とも取れる良祐の言葉に、和仁は驚きに目を見開き良祐に顔を向けるが、そんな和仁に顔を向けて、良祐は「冗談ですよ」と笑って見せた。
 和仁は、眉間に少しだけ皺を寄せて、良祐を見つめる。

「誰も傷つけないって言うから、俺は協力したんだからな」

「はい。だから、誰も肉体的には傷ついてないでしょ?」

 良祐はそう言って笑った。
 その笑みは、何を考えてるか、長い付き合いのある和仁にだってつかめない。そんな親友を和仁は少しだけ睨むが、仕方なさそうに小さく溜息を吐き出す。
 自分の親友を殺人犯になどして溜まるか。と和仁は心の中で不貞腐れた。

「僕だって、彼女なんかのために、人殺しになるなんて冗談じゃないですよ」

 良祐の言うことは事実だが、和仁は少し疑わしげな目を良祐に向け、そんな和仁の態度に、良祐は苦笑いを見せる。
 だがとりあえず、和仁は良祐の言葉を信じて、ベンチにゆったりと座りなおす。

「それにしても、あの『死体』よくできてたよな? それに、俺ほとんどお前が何してたか知らねぇんだけど?」

 和仁が不思議そうにそう聞けば、良祐はおかしそうに笑って見せた。

「あの『最初の死体』ですか? あれは、シリコンとゴムを使ったオモチャですよ。僕、昔から図工は得意でしたから。あとは、それっぽく血糊をつければできあがりです」

 良祐は事も無げにそう言うが、ただのオモチャが、あれほど人を怯えさせることなど、できるものだろか? と和仁は思ってしまう。

「近くで見ても、結構生々しかったけどな。あれ」

 和仁はそう言うと、眉間に深い皺を作って見せた。

「あはは。その答えは簡単です。部屋をわざと暗くしたのは、そのオモチャを『本物の死体』だと思わせるためなんですよ。明るいところでみると、普通にオモチャですよ。後で見せましょうか?」

 まぁ、あれが本物でないなら、和仁はそれで一向に構わないのだが、ふと思うのは、なぜ一番最初に『死体』を見た広美が、簡単に引っかかってしまったかと言うことだ。
 触ればすぐにニセモノだと分かるし、あの部屋は鍵すらかかっていなかったのに。

「なんか、考えれば考えるほど分かんねぇんだけど?」

 和仁がそう言って首を傾げれば、良祐は少しうなってから、口を開く。

「そうですか? 意外と簡単な仕掛けばかりなんですが。一番の問題は、あの部屋にどうやって閉じ込めるかです。ただの肝試しに使いたいと借りた場所でしたから、鍵もなにもかけてませんし、実際には、誰でも出入り自由な場所だったわけです」

「冷静になってみりゃ、そこまで広い場所でもないから、出ようと思えば出れるよな?」

「そこで役立ってくれるのが、あの『死体』だったわけですね。僕はそれっぽく見せるために、血糊の中に本物の血も大量に使っていますから、鉄臭い赤い液体イコール血液と言う連想はすぐにできてしまうんです。しかも、いつ誰に運ばれたかも分からない暗い室内。見たこともない場所で目を覚まし、不安な状況で『死体』を見て、連想するなと言う方が無理でしょう?」

「まぁ、確かに」

「暗い窓もない室内。出入り口は一つ、向こうの部屋には『死体』があり、さらに暗闇に近い室内に、誰かが潜んでいるかも知れない。なんて考えてしまえば、事実上の密室完成です」

「女じゃなくても、殺人鬼が居るかもしれない暗闇を、自由に歩きたいとは思わねぇな」

 和仁の言葉に、良祐は頷いた。
 室内を暗くして得る効果は二つ。まず『死体』をより本物のように見せること。そして『誰かが潜んでいるかもしれない』というのを思わせるためだ。
 広美に対しては、それは抜群の効果を発揮した。
 そして、和仁は続けて口を開く。

「まあ、テーブルや椅子を固定した理由はなんとなく分かる。あれだろ。天井の血文字とか、時計に細工してるのが、俺達じゃないってことを印象付けるためだったんだよな?」

「和仁の言うとおり、テーブルや椅子を固定したのは、部屋の中には動かせる物は一つもない。とうのを印象付けるためです。そして、そうする事によって、僕や和仁に細工が不可能だと思わせたわけです」

「でもわからねぇのは、なんでわざわざ時計の針を進める必要があったんだ?」

「それは、精神的な疲労の蓄積を狙った効果です。時間経過とともに、人の心は疲労していきます。肉体的にではなく、精神的に疲労した場合、肉体的な疲れと違い、ストレスを受けている状況から脱しない限り、減少することはないわけですから、長い時間ストレスをかけることによって、余裕や冷静さを削ぎ落とすわけですね」

「でも、実際は一日も経ってなかったよな?」

「まぁ、ほぼ一日ですね。時計を進めることにより、視覚的にも時間経過を認識させ、何度か眠ることによって、体内の時間も狂わせたかったんですよ。そうすれば、あの部屋で頼れるのは、部屋の時計だけですから。それだけでも、過度のストレスにはなります。そして、普通に暮らしていたって、人はストレスを感じるわけですから、さらに強いストレスを感じる状況を作れば、ああなるわけですね。とは言え、まさか、あそこまで効果があるとは思いませんでしたけど」

 良祐の説明に、和仁はそういうものなのか。と納得して頷く。

「あ。でもよう。酒が入ってたって言っても、俺らガタガタ動き回ってて、かなりうるさかっただろうに、よく目が覚めなかったよな? 居酒屋からあの部屋まで運んだときだって、広美のやつ、ちっとも起きる気配がなかったし」

「ああ、それは。僕愛用の睡眠薬ですね」

 笑顔でそういう良祐に、和仁は驚いた顔を見せて、ベンチから身を乗り出しかけるが、ふっとあることを思い出して、ベンチに座りなおした。

「そういや、お前。不眠症で一時期医者行ってたっけな。まだ、行ってたのか?」

「まあ、半年ほど前から、また通いだしたんですけどね。前よりはだいぶ落ち着いてますから。大丈夫ですよ」

 良祐はそう言って、やはり笑顔を作るだけだった。
 昔からそういう奴だった。と和仁は小さく息を吐き出す。
 いつでも誰かに気を使い、いつでも自分が我慢して、そしてパンクする。
 良祐は昔から、そういう優しい、そして不器用な性格だった。
 母親や父親のことで、自分が板ばさみになり、精神的に追い詰められて、結局は医者の厄介になってしまい、それでも、そんな良祐を心配する和仁には、なにも言わずに、大丈夫だと言って笑うのだ。
 だから、良祐から何かを聞きだすのは大変な苦労をする。和仁はそれをよくしている。
 それは、勇次も同じだった。

「さすが、腹違いでも『兄弟』だよな。お前も、勇次も。本当に頼って欲しいときとか、弱音吐いて欲しいときにはだんまりでよう。だけど俺は、広美がお前と勇次が兄弟だったのを知らないってのは、初耳だったな。てっきり勇次が言ってるかと思ったけど」

 和仁がそういうと、良祐は苦笑いを見せる。

「僕は、みんなに言ってもかまわない。と何度も勇次には言ったんですが、勇次がね。自分は、父の浮気相手の子供だ。ってことを凄く気にしてたんですよ。半分とは言え、血のつながった弟ができて、僕は嬉しかったんですけど」

「ああ、だろうな。おかげで、大学ではホモだもんなぁ」

 そう和仁が茶化して言うと、良祐は少しだけ気に入らないという顔を見せて、すぐに小さく笑いなおした。
 大学で、ホモだと噂されてしまうほどには、良祐は勇次をかわいがりすぎていたのは事実だったからだ。
 良祐は、そんな自分自身にも、少し呆れてしまう。

「本当に、そういう噂流すのやめてくださいね? ですが、勇次は本当に誰にも言いたがらなかったですから、僕も、勇次が言いたくないなら、黙っていようと決めてました。それなのに、和仁のしつこさには参りますね。口の堅い勇次に、僕と勇次の関係を吐かせたわけですからね」

「粘り強いと言ってくれ」

 そういうと、和仁は誇らしげに胸を張ってみせる。
 そんな和仁の態度に、良祐は素直に笑って見せた。
 明るい和仁に、一体どれだけ助けられたことか。そして、今も助けられていることか。良祐は、口には出さないが、和仁に、とても、深く感謝しているのだ。

「ものは言いようですね。ですが勇次も、和仁にホモだと思われるよりは、本当のことを話したほうがいいと判断したんでしょう。勇次は和仁のことが好きでしたからね。兄のように慕っていたという意味ですよ」

「わかってるっての」

 二人はそう言って笑いあうと、静かに口を閉じた。
 空を見上げれば、気持ちのよい青空が広がり、穏やかな風だけが、二人の間で緩やかに流れる。

「これで、本当のことがわかった……ってことだよな」

 ぽつりと和仁がそう呟いて、良祐に顔を向ければ、良祐はただ空を仰ぎ見て、ふっと唇を弓なりに、微かに吊り上げてみせた。

「そうですね。僕はそれが知りたかった。それだけだったのになぁ……」

 良祐は眩しそうに目を細めると、笑みを深める。
 良祐が言うように、彼は本当のことが知りたかっただけだった。





 気がつけば、良祐の両親は不仲だった。そして、毎日二人の喧嘩は絶えず、母は怒り狂い、父は段々と母や家から遠ざかっていく。
 父が家から離れて、母の不満は父によく似ていた良祐に向いた。それでも、そんな母を責められず、だからと言って、こんな母に、毎日のように付き合っていた父も哀れに思えて、良祐は自分がどんどん追い詰められていった。
 当然、家に居たところで、良祐の体も心も休まる日はなくて、逃げるように、和仁と一緒にいることも増えて、薬なしじゃ眠れないほどに、良祐の心も体も疲れ果てていたのだ。
 それが何年も続いたあるとき、良祐の父親が突然良祐の前に現れて、まるで今まで逃げてきた分の埋め合わせでもするように、それは懺悔にも似ていたかもしれないが。
 良祐の父親は、良祐に全てを告白し、ある女性に合わせた。
 その女性こそ、父の浮気相手であり、今は亡き勇次の母親でもある人で、良祐を自分の子供のように可愛がってくれた人だ。
 その関係は、勇次が居なくなった今も続いている。
 当時、家に居ても休まらない良祐は、その女性の家に行くことが多かった。父の愛人であり、彼女が快く良祐を受け入れてくれたのも大きな理由の一つだが、勇次の存在が一番大きかったと言える。
 歳は一つしか変わらないが、自分に懐く弟が、良祐はかわいくて仕方なかった。
 今まで一人っ子として育っているからこそ、良祐にとって『兄弟』とは、腹違いでも特別な存在になったのだろう。
 そして、良祐の父親も勇次の母親と居るときだけは、とても穏やかな表情を見せ、そこに良祐も入れば、立派な『家族』になった。
 そうして、逃げ場を得ることにより、良祐は段々と落ち着き、かわいそうな自分の母にも、彼女のヤツ当たりにも、耐えることができるようになったと言える。
 だが、そんな良祐のささやかな幸せは、勇次の死で変わってしまった。
 一人息子を亡くした勇次の母は、今でも勇次を思い泣き暮らし、良祐の父や良祐でも、その心の傷を癒すことはできず、父も母と離婚して、勇次の母親のそばに居ることを決めてしまった。
 良祐は、自分の本当の母親を見捨てることができず、今は母と二人で暮らしている。そのせいで、また病院に通う羽目になってしまったのだが。
 そして、なによりも良祐自身、勇次の事故死には、強いショックを受けていた。
 事故で死んだ勇次に、どう頑張ったところで、良祐ができることなどなにもない。それでも、良祐はなんの力もない自分に絶望したのだ。
 だが、勇次の所持品を警察から返してもらった後、勇次の家で、勇次の携帯電話をいじっていたときに、たまたま気がついた通話録音の記録に、広美と勇次の会話が録音されていたことが気にかかった。
 録音された日は、丁度、勇次が死んだ日と同じ。
 警察もきっと調べただろうが、気になるのは内容だ。
 事故だった。と言われれば、自殺した。とされるよりもいいに決まっている。だが、警察が調べたわりには、勇次の死後の広美の態度に変化はない。
 気になった良祐は、警察に出向き、それとなく勇次の所持品について、様々なことを聞いた。だが、それで分かったのは、警察の捜査も杜撰に終わらされていたことだった。
 良祐は、勇次の事故死を自殺にしたいわけではないが、勇次があのマンションに居たことや、それに広美が関係していることは、紛れもない事実であり、そして、実際にあの場で、勇次と広美の間に、どんな『約束』が交わされていたのか。それを知りたかった。
 だが、広美にそれを聞いたところで、彼女が素直に言うとは思えなかったし、さらに、彼女が、自分との会話のせいで、勇次を死に追いやったかもしれない。そんな事実を認めるわけもない。と良祐も和仁もわかっていた。
 広美は、そういう女だ。
 最初、広美が和仁に好意を持っていたのを、二人は知っていた。
 和仁からすれば、広美のような女は嫌いなタイプに属するため、係わることさえ嫌がっていたが、勇次が思いを寄せていることを知っていた二人は、仕方なく広美とは、付かず離れずで付き合いをしていたが、勇次の死後にまで、彼女と友人で居る必要などない。
 だが、良祐はどしても、広美と勇次の『約束』を知りたかった。だから、様々な手を使い、広美やその周りから情報を得ようとしたのだ。
 本当のことが知れるまでは、広美を突き放すわけにもいかない。
 だが、いくら調べたところで、良祐の知りたいことはわからず、結局は広美本人の口から聞きだすしかない。
 そして、良祐はこのお化け屋敷モドキのトリックを思いついた。
 広美を傷つける気はなかった。それは本当の事だ。
 だた、少しだけ。彼女を怖がらせ、脅かそうという気持ちがなかったとは言わない。
 だが、実際に実行してみて分かったのは、広美のワガママと自分勝手が、良祐の思うよりも遥かに強いこと。それ以上に、自分のことだけしか頭にないほど、広美は最低とも言える自己中女だったことだ。
 当初の予定では、良祐や和仁の『死体』まで用意する必要はなかったし、携帯電話に残された勇次の声を使うことも、扉を殴りつけるように叩き、怯えさせる気もなかった。
 はじめから予定されていたのは、時計やテーブルのトリックと、天井の血文字くらいだ。
 だが、最後の最後まで、広美は自分に非がないことを叫び、勇次にすらその責任を押し付けるような言葉を吐き出した。
 自分だけが被害者のように怯え、誰かに責任を押し付け、勇次のことを『しつこい男』と罵った。それが、良祐にはどうしても許せなかったのだ。
 確かに、勇次は良祐や和仁と違い、女性と器用に付き合うことなどできなかったし、見た目で言えば、和仁のように男性的な凛々しい格好良さも、良祐のように、柔らかい物腰で、優しい王子様のような格好良さも持ち合わせては居なかった。
 目立たず、普通というよりは多少地味な容姿で、性格的にも、あまり目立つことを好むような人物ではなかったと言える。
 だが、良祐や和仁から見た勇次は、物静かで真面目で、優しく穏やかな性格をしていた。少し大人しすぎるところはあったものの、とても賢く、友人には親身に手を差し伸べ、人を許せる優しさを持っていた。
 そんな勇次が、盲目的に誰かを好きになったのだ。良祐も和仁も、応援したい気持ちではいたのだ。
 だが、そんな勇次の気持ちや態度に対し、不誠実な事を言い、その態度を見せた広美に、良祐も和仁も腹が立って当り前だったのかもしれない。
 それでも、勇次は広美を本当に想っていたのだろう。
 彼女の言葉通り、自分の気持ちを証明するために、死ぬとわかっていたはずの、十五階建てのマンションの屋上から、自ら飛び降りてしまうほど。
 警察が、事件性はない。と言っても、良祐からすれば、これは歴とした『殺人』だ。と思った。
 人の気持ちを利用して、自殺を促すことは『殺人』と同じはずだと。
 和仁にとっては、勇次も良祐も大事な親友だった。
 良祐にとっては、勇次は可愛い弟だった。
 そんな三人の関係を崩したのは、心無い女のたった一つの『約束』だ。





 怨まないわけがない。呪いたい気持ちが湧かない訳がない。
 自分すら良祐は許せず、広美を本当に、自分の手で殺してしまいたい。と思わなかったといえば嘘になる。
 あの暗く狭い、無機質なコンクリートの箱を、そのまま彼女の棺桶にしてもよかったとさえ思う。
 その恨みは深く、底など見えないほどに暗い。
 自分の心の深い底から湧き上がる憎悪に、胃やのどが焼け付くような苦しさを感じる。
 良祐は、その苦しさを吐き出すように、空を見上げたまま口から息を搾り出す。
 これほどまでに、良祐が広美を憎らしく思っても、良祐が広美に手をかけなかった理由。
 それは、和仁との約束でも、人殺しになることが嫌だったからでもない。
 もちろん、そられも理由の一つだが。
 広美がどれだけ自分勝手で、勇次を蔑ろにした最低な女だったとしても、良祐は決して広美には手を出さないと誓っていた。
 なぜなら、今は亡き勇次が、この世でただ一人、心から愛した女性だったからだ。
 良祐は空の眩しさに目を細める。

「天気……今日は馬鹿みたいに晴れてますね。目が痛くて嫌だなぁ」

 そう呟いて、良祐は自分の腕で、まるで光から逃げるように両目を空から隠した。
 いくら憎んでも、開いた穴が埋まることはない。
 復讐をしたところで、亡くしたものは戻らない。
 知りたかったはずの真実を知っても、それが意味を持つことなどない。
 結局、良祐の望むものは、何ひとつ戻らないし、手に入らないのだから。
 残るのは……ただ。
 なにも言わなくなった良祐に、和仁は顔を向けた。
 そして、和仁はなにも言わずに自分の着ていた上着を脱ぎ、良祐の頭に上着をかぶせて、空へと顔を向けると、和仁はその眩しさに目を細める。

「ああ、本当にな。しばらく貸してやるから、かぶってろよ。日よけくらいにはなんだろ」

 和仁の言葉に、良祐を隠した上着から、小さな笑い声が漏れる。

「ええ……助かります」

 良祐を隠した上着から、くぐもった声がそう答えると、和仁の上着は小さく震えていた。





 同じころ、窓を鉄格子で覆い、無機質で余計な物がない白く小さな病室で、一人の女性が両膝を抱えて、部屋の片隅で震えていた。
 窓から差し込む心地よい光と暖かさに、無機質な白い部屋にも、多少のぬくもりを運んでいたが、部屋の住人である女性には、そんなことは一切関係ない。
 今日の空が雲の少ない晴天で、外には穏やかな風が吹き、普通なら心地よさを感じる陽気だとしても、彼女には、全くどうでもいいことなのだ。
 いや、どうでもいいと言うと、意味が少し違ってくる。
 彼女にとって、今日の天気以前に、この無機質な場所が病院であり、自分はそこに入れられてしまったのだ。と言うことを認識することさえ不可能だった。
 だから、彼女はただ、この小さな部屋の隅に隠れるように小さく縮こまり、恐怖に怯えて体を震わせるだけなのだ。  そして、彼女は小さくブツブツと言葉を繰り返す。

「私、じゃない。私の……せいじゃない……わた、しの」

 彼女はただ、この部屋でそう呟き続ける。





                                    おわり